書評

2012年12月号掲載

父も知らなかった父の生涯

――大崎善生『赦す人』

黒岩由起子

対象書籍名:『赦す人』
対象著者:大崎善生
対象書籍ISBN:978-4-10-126573-5

 父・団鬼六が物書きだと知ったのは、幼稚園の頃です。日中はいつもけらけら笑って遊んでいて、夜になると仕事部屋に一晩中、電気がついていた。でも、ずっと推理小説を書いていると思っていました。誰かにきかれたらそう言っておけ、と父に命じられていましたから。
 小学校高学年になると、家の中にしょっちゅう怪しげな物が落ちているので、父の仕事の中身がうすうす分かってきましたが、実際に『花と蛇』などを読んだのは大学を卒業してから。最初に読んだのは時代物でしたが、えっ、こんなの書いているんだとびっくりして、それから主人公の女性に感情移入して泣きました。
 私や兄には、ひたすらやさしい父です。遊びや旅行によく連れていってくれて、怒ったことなんか一度もない。勉強していると、そんなことして何になる、勉強なんかすると不細工になるぞって。
 でも母には、つらく当たる父でした。感謝の気持ちなんか絶対に口にしない。私の母にもそうですし、再婚した安紀子さんにも同じ。何でも「アホか」のひと言で、自分の奥さんに対してはケチョンケチョンなんです。やさしいと同時に豹変する。怖い父の姿も何度も目にしています。
 このノンフィクションの中で、父に『花と蛇』を書かせるために「奇譚クラブ」の編集者を三浦に呼んだのは、じつは母だったということを取材の過程で初めて知らされて、父が茫然とするところがあります。私も知らなかった事実でしたが、父にざまあみろと言いたい感じでした。
 父は「夢見る文学少女や、アホや」と罵っていましたが、母こそ小説家としての父をプロデュースしようと心を砕いていたのです。父の才能に惚れこんで結婚した母は、東京で酒場を経営しながら自堕落な生活を続けている父の姿に、このままでは絶対駄目になると考えて三浦に連れて行き、陰で支えて小説を書かせようとした。それが裏付けられて、母のために嬉しかったですね。
 大借金をして建てた横浜の豪邸も、母はそんなお金があるならマンションを建てたいと望んでいました。もし父が書けなくなっても暮らしていけるように、母は堅実に一歩一歩先を考えていたのですが、そんな思いが父には通じなくて、いつも喧嘩になっていました。それがやがて離婚に発展して、そのきっかけとなった事件を父なりに書いたのが「不貞の季節」という作品です。
 母と離婚してから建てた横浜の家には、将棋指しはもちろん、やくざやストリッパーまでさまざまな人が出入りしていました。朝起きて、知らない人が家にいるのは当たり前。いつもお金がない、お金がないとぼやいているのに、父はその割に好き放題に金を使う。金持ちなんだか貧乏なんだか分からない家でした。
 この本の中では、大崎さんが父の内面の葛藤を深く分析してくれていますが、おそらく父は全く意識していなかったでしょう。仮に悩んでいたとしても、自分が悩んでいるとは考えない人です。エブリシング、エブリバディOK。楽しむのがすごく上手で、五億円の借金ですら楽しんでいたのではないかと思えるほどです。それは大きさでもあり、いい加減さでもあって、それが父の魅力の一つでした。
 亡くなる直前の病室に、この本の連載第一回のゲラが届けられて、父はそれを胸に抱きしめていました。俺も知らないことをよくここまで調べたな、と言って。残念ながら二回目以降の原稿を、父が目にすることはできませんでした。
 一年ほど経って、私は没後初めて父の夢を見ました。橋の欄干の上で軽々と踊っている父の夢です。橋の下は深い谷です。こちらは心配して、早く降りてよと言うのですが、本人は上機嫌で踊っている。でも、心配するこちらも、そんな父を見てじつは楽しんでいるのです。
 父がいなくなって、今は寂しいのは当然ですが、それよりもつまらないという気持ちです。どんなふうにも生きられるし、どんなふうに生きてもいい。父の生き方を間近で見て、そう教えられました。母に似た私は、なかなかあんなふうには生きられないのですが。

 (くろいわ・ゆきこ 団鬼六氏長女)

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