インタビュー

2012年8月号掲載

インタビュー『雲の都』完結にあたって

八十年がすべて詰まっている小説

加賀乙彦

対象書籍名:『雲の都 第四部 幸福の森・第五部 鎮魂の海』
対象著者:加賀乙彦
対象書籍ISBN:978-4-10-330813-3/978-4-10-330814-0

――自伝的長編小説『永遠の都』シリーズの最初の作品「岐路」の連載が始まったのは「新潮」一九八六年一月号です。

『永遠の都』では昭和十年から敗戦直後までが描かれています。著者の分身ともいえる小暮悠太は小説の始まりでは数え年で七歳、幼稚園に通っています。『永遠の都』の中心人物である時田利平は悠太の母方の祖父、元海軍軍医の外科医で、三田綱町に時田病院を開業しています。

 私の母方の祖父・野上八十八は実際に海軍軍医で、日露戦争の命運を分けた日本海海戦のとき軍艦八雲に勤務していました。明治天皇の逝去により海軍を辞め、三田で開業します。品川駅は線路の数が多いのですが、当時は遮断機などありませんから事故がしょっちゅう起き、怪我人がよく運ばれてきました。祖父の病院はいわば緊急救命センターのようなものでした。すぐに止血にとりかかれるようにコッヘル止血器を持って患者を待つ祖父の姿はいまも眼に残っています。祖父は虫垂炎になったとき、自分で手術をしたと母から聞きました。外科医の友人にそんなことができるのかと尋ねたところ、麻酔さえきちんとすれば可能だそうです。

 祖父の書斎には日記がずらりと並んでいました。子どもの頃から読んでみたいと思っていたのですが、祖父が亡くなったとき、その日記をすべてもらってきました。明治三十七年のものから残っていて、細かい文字でびっしりと書かれていて、日露戦争、関東大震災、などの当時の出来事の詳細な記録にもなっていました。これをもとにしていつか小説を書こうと思いましたが、当時はまだ医学生の身で、小説家になるのは叶わぬ夢だとも感じていました。

――でも、その日記をもとにした『永遠の都』とそれに続く『雲の都』は加賀さんのライフワークとなりました。

 子どもの頃からロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』やトルストイの『戦争と平和』が好きで、あのような大河小説を書きたいという思いがどこかにありました。ですから小説家としてデビューしてからも、自分の少年時代を描いた小説はわざと書かないで時機を待っていたのです。

『永遠の都』のいたるところに、祖父の日記の記述が反映しています。私は実際のモデルがいないと登場人物にリアリティをもたせられないタイプの作家です。祖父だけではありません。ほかの主要な登場人物にもモデルがいます。時田利平の妻菊江の妹・藤江の夫、悠太にとっては大叔父にあたる風間振一郎は、戦争中に石炭統制会の理事をつとめた茂野吉之助という人物がモデルです。面白いことに、茂野は『結核征服』とか『サナトリアム六講』という本を書いているのです。俳句も嗜んでいましたし、私と同じく二足のワラジをはいていたのでしょうか。

 モデルが実際にいるので、それぞれの人物の描き分けはかなりできていると自負しています。もちろん事実をそのまま書いているわけではありません。悠太には央子という妹がいますが、実際には私の兄弟は男ばかりです。末の弟には、女にしやがってと文句をいわれました。事実をもとにしてはいますが、そこからフィクションが大きくふくらんでくるのです。ひとつだけ種明かしをすると、肌の白い人物は酒が飲めなくて、浅黒い人物は酒が飲めるというように描き分けています。

――『永遠の都』では戦争が重要なテーマとなっていますね。

 小説の始まりは昭和十年ですが、その翌年、二・二六事件が起きました。日中戦争が始まり、さらに太平洋戦争へとなだれこみます。私の少年時代はずっと戦争しつづけていたようなものです。僕は陸軍幼年学校に入ったので、国のために死ぬのは当然だと考えていました。ところが、空襲による焼死体の山を実際に眼のあたりにすると、死に対する恐れが生まれました。いまでも戦時中のことはよく思い出しています。戦争は絶対に描きたかったテーマで、この作品は私なりの『戦争と平和』といってもいいかもしれません。少しおこがましいですけれども。

――続編の『雲の都』五部作になると、時代は戦後となります。悠太は東大医学部を卒業して、精神科医となります。一方で、森鴎外やチェーホフといった医者でもありながら小説も書いた作家の作品を愛読し、自らも小説家を志しています。

『永遠の都』で完結したつもりだったのですが、当時の「新潮」の編集長が私の別荘を訪れ、続編を書いてくれと依頼されたのです。戦後を描いた『雲の都』では、私自身の日記がおおいに役だちました。血のメーデー事件の被告となった浦沢明夫という人物にも実際のモデルがいます。彼のようなインテリではない人物と知り合えたのは、セツルメント活動に参加したおかげです。さまざまな階層の人物が登場することにより、作品に厚みが増したと思います。

――このたび刊行された『第四部 幸福の森』、『第五部 鎮魂の海』で『雲の都』は完結となります。第四部では、悠太が幼いころから憧れていた千束との結婚から物語が始まります。

 悠太は結婚して、子どももでき、作家としてのデビューも果たします。順風満帆、まさに幸福の森にいるかのようです。しかし一方で、周囲の人たちが少しずつ亡くなり始めます。幸福というのは永遠のものではないのです。

――利平の乗る八雲が日本海海戦の直前に碇泊していた韓国の鎮海という港を悠太は訪れます。

 私も実際に鎮海に旅行したのですが、桜の美しい町でした。現地の人に聞いたところによると、朝鮮人を追い払って日本人町をつくり、その周囲に土手をつくって、朝鮮人には町が見えないようにしました。命令に従わない朝鮮人を日本兵は虐殺したそうです。

――『鎮魂の海』になると、悠太の次の世代、娘の夏香と息子の悠助が描かれるようになりますが、一九九五年に起きた阪神大震災と地下鉄サリン事件という大きな出来事が二人の人生を大きく変えます。

 阪神大震災のとき、私はすぐにボランティアの医師として神戸に向かい、神戸大学附属病院のほか、国境なき医師団やパリ大学の医師のグループと一緒に医療活動を行ないました。精神科の仕事は私が担当し、それ以外の診療は私が通訳しました。彼らは親切で一生懸命でした。

 地下鉄サリン事件では、私の息子は事件が起きた車両の次の車両に乗車していたのです。事件後しばらくは体調を崩していました。息子はあわやというところで助かったわけで、そうしたことも小説に盛りこみました。

――悠太の妹の央子は世界的なヴァイオリニストですし、悠太の息子もピアニストをめざしています。千束の別荘が完成したときには演奏会が開かれていますし、のちに芸術村にまで発展します。間島五郎の絵画、火之子の劇団活動、久保高済という友人が遺したスケッチ、浦沢明夫の木彫などこの作品では芸術も重要な要素となっています。

 遠山慶子さんや岩崎淑さんなど、もともと音楽家の方々と親しいお付合いをしてきました。それに妻がヴァイオリン弾きでしたし、ヴァイオリニストに関する本が好きで、いろいろ集めていました。実は私もヴァイオリンを少しは弾くことができるんです。もうずいぶん弾いてませんけれども。絵画、音楽、そして文学、この三つは私の人生にはなくてはならないものですね。

――開始から四半世紀を経て、ようやく完結となりました。長いあいだお疲れさまでした。

 書き始めたのは五十五歳のときで、そのときは七十歳までには終えるつもりでした。結局、八十二歳になるまでかかってしまいました。私の八十年の人生がすべて詰まっている小説だといえます。

 この作品を書いているあいだに、妻を始めとして私の周りでは多くの人が亡くなりました。私自身、文藝家協会の新年会で意識を失って倒れ、心臓にペースメーカーをいれました。死に対する考えが書き始めた頃とはまったく別のものになったような気がします。

――『雲の都』は二十一世紀に入ったところで終わっていますが、その後も東日本大震災という大変な事が起きました。それについて感じるところがおありですか。

 心臓を患ったため第一級障害者になって、さすがに現地に赴くことは出来ませんでした。テレビ報道などを見るたびに、戦争とまったく同じ悲惨な出来事だと感じます。日本という国はつぎつぎに国難に襲われる不思議な国だと思います。

 (かが・おとひこ 作家)

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