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書評・エッセイ

クイーンズギャンビットシンチョウブンコクイーンズ・ギャンビット(新潮文庫)

ウォルター・テヴィス 著/小澤身和子

990円(税込)

天才少女ベス、男性優位のチェス界で頂点を目指す! Netflixの大人気ドラマ原作、待望の邦訳。

孤児院で育った少女ベス。用務員にチェスを習い天賦の才を開花させた彼女は、やがてウィートリー夫人に引き取られ、各地の大会で強豪プレイヤーを相手に次々優勝、男性優位のチェス界で頭角を現す。孤児院で与えられた安定剤と、アルコールへの依存とも闘いながら、ベスはついにソ連の大会で最強の敵ボルゴフに挑む――。世界的な大ヒットドラマの原作となった、天才少女の孤高の挑戦を描く長編。

新潮文庫『クイーンズ・ギャンビット』刊行記念特集

三十七年の孤独

ベスのモデルは?ドラマならではの試合演出とは?チェスで読み解く本書の魅力

『クイーンズ・ギャンビット』とチェス描写

渡辺暁

 クイーンズ・ギャンビット。チェスを指す人間しか知らなかったこのフレーズを題名とするドラマがこんなに有名になると、一年前に誰が想像しただろうか。世界で一番有名なチェスプレイヤーは、と聞かれたら、多くの人が、世界チャンピオンのカールセンでも、フィッシャーやカスパロフといった伝説のチャンピオンたちでもなく、このドラマの主人公「ベス・ハーモン」と、(フィクションと現実を混同して)答えるのではないか。Netflixのドラマは、それくらいのインパクトとリアリティを持っていたように思う。

 筆者はスペイン語の教員である。かつて三回ほどチェスの日本チャンピオンになったことがあり、本も三冊出している。このたびご縁があって、このドラマの原作のチェスの場面の翻訳監修をさせていただいた。本稿ではチェスに関連する話を中心に、監修の過程で調べたことを紹介し、チェスプレイヤーから見た作品の魅力をお伝えしたい。

 この「物語」の歴史は1983年、ウォルター・テヴィスという男性の作家が、チェスという男性中心の世界で活躍する女性主人公を生み出したことにはじまる。作者は残念なことに翌年に亡くなったが、その後、ハンガリーのポルガー姉妹や、謝軍(Xie Jun)や侯逸凡(Hou Yifan)といった中国の女子世界チャンピオンたちの活躍もあって、チェス界でも女性のプレイヤーがかなり増えた。そして2020年、『クイーンズ・ギャンビット』はNetflixで映像化された。37年の時を経て、作品にふさわしい時代を待っていたかのように。

 ドラマが制作されたこと自体、この作品にとってすばらしい出来事だった。しかもそのドラマは傑作だった。主人公を演じたアニャ・テイラー=ジョイをはじめとする俳優陣の魅力、後述するように綿密に設計されたチェスのシーン、ベルリン周辺で撮影された美しい映像、そしておそらくはNetflixというオンデマンドの媒体における、合計7時間のドラマというフォーマットも、作品にとって最も適したものだったろう。幸運な作品だ、とつくづく思う。しかしそんな幸運と巡り合ったのも、原作がいろいろな意味で時代を先取りしていたからこそ、だと言えるだろう。

 チェスのシーンの監修というお仕事をいただき、私はとりあえず作品を読み始めた。そして、ベスの物語にどんどん引き込まれていった。ベスという女性の成長と様々な苦悩と喜びが、チェスのシーンを挟んで展開し、チェスのことをそれなりに理解している私には、その二つのギャップが心地よかった。もちろんチェスに関連するシーンも(これに関してはおそらく、普通の読者・視聴者以上に)楽しませてもらったが、実を言うと、彼女のチェスプレイヤーとしての心理描写などよりは、大会参加のための金策を練るシーンや、苦手だった地味な終盤戦(若い頃からベスが得意としていた攻撃的なチェスとは別の思考回路が必要)を克服していくところに共感を覚えた。そして折に触れて、これからどうやって生きていこうかと悩む彼女の姿は、チェスは好きだけどプロになれるわけではないし、どうやってチェスとつきあっていこうか、と考えていた20代の頃の自分を(僭越だが)思い出させてくれた。先日の大坂なおみ選手の記者会見拒否宣言について耳にしたときも、小説のベスの苦労のことを真っ先に思い浮かべたくらい、この本の余韻は私の頭の中に今も残っている。

 ベス・ハーモンというキャラクターはもちろん作者の造形だが、様々なモデルがいたことも確かである。幼少時の鎮静剤中毒はテヴィス自身の経験であり、ベスのチェスプレイヤーとしての早熟と世界トップレベルへの急激な到達は、米国の伝説のチャンピオン、ボビー・フィッシャーの活躍を彷彿とさせる。また、テヴィスの最初の奥さんによれば、彼はあるときビリヤードの大会で活躍する若い女性を見て、感銘を受けたそうだ。そしてもちろんチェスの世界にも、ベスたちのモデルがいた。米国のマスター(将棋の達人としても知られる)ラリー・カウフマンは、ベスの直接のモデルは、ダイアナ・ランニという、テヴィスも知っていたに違いない、米国代表になったこともある女性プレイヤーではないか、と言っている。カウフマン自身もハリー・ベルティックのモデルではないかと推測している。実際、ランニは何人もの友人から、「Netflixであなたのドラマをやっているよ」という手紙を受け取ったそうである。

 ドラマのチェスのシーンについては、米国の有名コーチ、ブルース・パンドルフィーニが主たる監修者となった。アメリカチェス連盟の機関誌『チェスライフ』によれば、彼はこの映像化にあたって、台本に合うような92の局面を集めた冊子を作成し、最終的には背景で進行するゲームなども含め、350もの局面を用意した。歴史上の有名なゲームをそのまま使ったものも多かったが、クライマックスのゲームは、「ボルゴフのルックが中央に来た」という原作の記述を再現するため、実際にあったゲームの局面からスタートして、展開を考えたようである。さらにはなんと、伝説の世界チャンピオン、ガリー・カスパロフも参加し、すばらしいアイディアを提供した。現世界チャンピオンのマグヌス・カールセンもYouTubeに動画を投稿し、「初めて見る局面がいくつもあって面白かった」というコメントを発表するなど、チェスのシーンの高い完成度が、作品としてのクオリティの向上に貢献したことは間違いない。

 書いていいのかわからないが、正直に申し上げて、原作のチェスの記述には間違いも多い。前述のパンドルフィーニによれば、原作の執筆時も監修者として草稿を読み、様々な矛盾を指摘したそうだが、そのコメントは生かされることはなかったという。私も読んでいて、少なくとも二箇所ほど、ベスが白番で彼女の視点からの記述のはずなのに、文章がいつの間にか黒番から見た記述に入れかわっている、というところがあり、狐につままれたような気分になった。

 ただし。粗探しをすれば色々と矛盾点が出てくるとはいえ、テヴィスの描くチェスのシーンは妙に迫力があって説得されてしまうのだ。一番わかりやすいのは、全米チャンピオンのベニーが中心となって、カロカンディフェンスという定跡を検討するシーンに出て来る、All pawns and no hope! というセリフである。これは(好意的に解釈すると)「ポーンばっかり動かして、望みのない作戦だ」ということかと思うが、正直意味不明である。しかし、世界のトッププレイヤーの一人、米国のヒカル・ナカムラ選手がこのセリフを引用してツイートするなど(もちろん説明はない)、チェスプレイヤーにもフレーズとして(おそらく意味不明なところも含めて)強いインパクトをあたえたようである。テヴィスの言葉の力の一番の例ではないか(なお、このカロカンディフェンスは、受け身だが非常に手堅く優秀な戦法であることを念のため付記しておく)。

 監修の仕事はなかなか大変だった。そもそもチェスというゲームは日本でほとんど(少なくとも本格的な競技チェスは)普及しておらず、したがってチェスについて記述する日本語の文体も確立していない、と私は(これまで三冊の本を書いてきたにもかかわらず)思っており、しかもチェスを知らない人が読んで内容を想像できるようにするにはどうすべきか、という難しさがあった。翻訳者の小澤身和子氏にとっても、チェスの場面というのは、プレイヤーとしての経験を積んでいるわけではないので、日本語として訳すことはさぞかし大変だったろうと思う。そのため私は途中から、自分でも試訳をして編集者に渡す、というやり方をとった。お二人にはご負担だったとは思うが、自分で訳してみないことには内容がつかめなかったのである。

 そして最大の問題は、前述の通り、テヴィスの原作のチェスのシーンが必ずしも正確ではないことであった。翻訳は監修できても原作を変えることはできないので、訳文はもちろん原文を反映したものになっている。チェスを知る人間としてははがゆい気もするが、その一方で「面白いからいいか」と思っている自分がいるのも事実である。なお、ドラマの方でもチェスのシーンはかなり脚色されている。例えば試合中は引き分けの提案を除いて相手に話しかけるのは厳禁だし、投了するときも時計を止めて負けを認め、握手を求めるだけ、である。キングを倒したりはしないし、ましてやキングを相手に渡したり、相手を抱きしめたりはしない。しかし、このドラマの影響でそういうことをする人が出てくるのではないか、とさえ私は思っている。そう思わせてしまうところが、この作品の恐ろしいところである。

 最後に、作品をとりまく実在の人々に触れて終わりにしたい。今回監修するにあたって、執筆当時を知る人たちが書いたさまざまな資料を読んだ。テヴィスの最初の奥さんの手記に書かれていた、彼が50歳の時に一念発起して安定した大学の仕事をやめ、自分のやりたかった小説を書くことに専念すると決めた話など、その年齢に近づきつつある自分にとって、心を揺さぶられるものがあった。また息子さんが手記で、「最初は自分の方がよく勝っていたが、父(テヴィス)が、(本の中でもベスがバイブルのようにしている)定跡事典を使ってチェスを勉強するようになったことで、対戦成績が逆転した」と書いているところなども、親子の関係がほほえましく、また作者の思考回路を理解するのに大変役立った。

 ドラマができたことで、モデルとなったランニとカウフマンも、当時を思い出したことだろう。そしてパンドルフィーニにとっても、ドラマの監修は37年前の忘れ物を取りにいくような作業だったのではないか。

 とにかく、この作品とその周辺にはたくさんの物語が詰まっていて、私は圧倒された。この幸せな作品が少しでも多くの人に読まれることを、そしてそれをきっかけにして、日本でもチェスを指す人が増えてくれることを、心から願っている。


参考文献
Chess Life, November 2020.(ウェブで読めます)
New In Chess Magazine, #7, 2020, #8, 2020, #1, 2021.(購読が必要)
Annabel Sampson, "The It Girl of the 1980s chess scene is thought to be the inspiration behind The Queen's Gambit's Beth Harmon,"
https://www.tatler.com.
Jamie Griggs Tevis, "Walter Tevis: Recollections of "The Hustler", "The Kentucky Review, 10(3), 1990.
Will Tevis, "Another Look takes on Walter .Tevis's "Queen's Gambit." And the author's son remembers playing chess with dad,"
https://bookhaven.stanford.edu, 2019.

 (わたなべ・あきら 『クイーンズ・ギャンビット』チェス監修者、京工業大学准教授)

ウォルター・テヴィス/小澤身和子訳『クイーンズ・ギャンビット』(新潮文庫)978-4-10-240171-2