書評

2021年6月号掲載

私の好きな新潮文庫

老いの味わい

武田鉄矢

対象書籍名: 『人の砂漠』/『半席』/『白川静さんに学ぶ 漢字は怖い』
対象著者:沢木耕太郎/青山文平/小山鉄郎
対象書籍ISBN:978-4-10-123501-1/978-4-10-120093-4/978-4-10-129892-4

img_202106_14_1.jpg

(1)人の砂漠 沢木耕太郎
(2)半席 青山文平
(3)白川静さんに学ぶ 漢字は怖い 小山鉄郎

 新潮文庫の中からお気に入りがあれば、三冊ご推薦をとのご依頼です。で、膨大な蔵書目録の頁をめくっておりましたが案外、忽ちにその三冊が決まりました。

img_202106_14_2.jpg  先ずは、私、やっと三十路のとば口で読み、そのルポルタージュの見事さに圧倒された一冊。『人の砂漠』。沢木耕太郎の初期作品です。八編のルポから成り、その中でも終章の「鏡の調書」に圧倒されました。
 主人公は八十三歳、滝本キヨと名乗る老婆で詐欺師。ふらり流れ着いた岡山の田舎町で銀座に土地をもつ億万長者を演じ、寸借詐欺をくり返し、町内の人達にも六百万円ほどの損害を与えて指名手配に。通報で逮捕されるが、取り調べに際して、このばあちゃんは凜として応じ、臆するところがない。まだ二十代の若きジャーナリスト、沢木耕太郎はこの老詐欺師に興味をもち、彼女の犯行をさらえるうちに意外な事実を次々と洗い出す。六百万円を騙し取りながらこの老婆が自分の贅沢の為に使ったのは八万八千円のみ。日々の生活費のほか残りは町内の人達への贈り物に費やされたという被害金額。案外、この老詐欺師が町内の人達を励ましていたのでは、と思い当たった著者は、そこに老詐欺師の「意地」を感じ取るのです。
 それにしても人間を見つめ、人間を報告する著者の筆力に、同じ世代に属しながら圧倒されました。

img_202106_14_3.jpg  そして次なる一冊が『半席』。青山文平の武家小説。私、六十路半ばに読みまして、まあ、身につまされること此の上なし。
 戦国の世から二百年ほどが過ぎた江戸の世。サムライが刀剣で名を揚げる時代は去り、役所の役名で威勢を競う文官の世。
 徒目付の片岡直人は上役から奇妙な水死事件の「真の動機」を探り当てるように命じられる。台所頭役の矢野作左衛門が木置き場の筏の上で釣りをしていて、足を滑らせて冬の水に沈み水死した。その死の腑に落ちない奇妙さを探る内に若き片岡直人は老いの無残、老いの手強さという真相に辿り着く。その真相とは、八十九歳になっても家督を譲らぬ作左衛門にあった。ただひたすらに役目を譲って貰えると待ち続けた七十二歳の養子の信二郎だが、凍て水の木場で家宝の銘刀「埋忠明寿」をたなご釣りの一尺(三十センチほど)竿と交換していたことを知り逆上する。老いて、何ひとつ譲らぬ作左衛門に怒りを向けると作左衛門は唐突に「飯が旨いのだ」という。老いと共にゆっくり枯れてゆく筈の欲望が少しも老いてゆかない。欲望が若いまま、八十九になっても子や孫に何ひとつ譲りたくないという。そして作左衛門はたなご竿を筏から投げ捨てる。信二郎がその場を離れると吝嗇(りんしょく)にも作左衛門は竿を拾おうと凍て水に手を伸ばし、落ちて沈んだ。
 この作左衛門の「飯が旨いのだ」が実に身につまされるひと言。「飯が旨い」「仕事には張り」を感じて「遊びは楽しい」。何ひとつ子や孫に譲りたくない作左衛門の長寿を呪う信二郎。著者・青山文平は若い世代にのしかかる枯れない老人の「無残」を描いて実に巧みです。全く新しいタイプの書き手で身につまされる武家小説です。

img_202106_14_4.jpg  そして最後の三冊目、『白川静さんに学ぶ 漢字は怖い』。表題の白川静さんとは、九十六年の生涯を漢字の字源を求めて亀の甲羅、獣の肩甲骨に刻まれた甲骨文字を渉猟(しょうりょう)。ついに三千二百年の時を貫いて漢字の生まれた源流に辿り着いた博士です。その学績は驚嘆すべきもので、著者、小山鉄郎は「一途」な白川文字学を伝えてくれます。
 例えば「而(じ)」という部首。このひと文字で髪を垂らした巫祝(ふしゅく)、祈祷師の姿だそうです。その髪を垂らした人は何を祈るか。これは雨を乞う専門の神官で、故に雨と組み合わせて「需」、もとめる、まつの意味を持つひと文字。「さんずい」を横におけば「濡」れるし、「にんべん」をおけば「儒」となり孔子の説いた儒教となり世間を潤す道徳の教えとなるわけです。
 この博士の面目は中国にとらわれることなく、人類史に立って漢字を解く「一途」にあります。白川博士を知る入門書には最適の一冊です。
 三人の著者は団塊と呼ばれた世代に生まれ、一九七〇年代に青春を通過した人達。奇妙な共通点で「老い」に憧れて、青春を足早に去った若者達です。その三人がそれぞれに老いの「意地」「無残」「一途」を描いているわけで、味わい深き樹液のような作品です。
 是非、御賞味を。

 (たけだ・てつや 歌手/俳優)

最新の書評

ページの先頭へ