対談・鼎談

2021年6月号掲載

道尾秀介『雷神』刊行記念対談

取材の本音、創作の真髄。

道尾秀介(作家) × 高橋ユキ(フリーライター)

1年半ぶりの新刊『雷神』を刊行した道尾さん。
刊行を記念して、執筆にも多大な影響を受けたという衝撃ノンフィクション『つけびの村 噂が5人を殺したのか?』の著者・高橋ユキさんをお招きしました。
フィクションとノンフィクション、それぞれの書き手の立場からみえてきた、執筆の極意、そして作品を世に問う意味とは。

対象書籍名:『雷神』
対象著者:道尾秀介
対象書籍ISBN:978-4-10-135557-3

高橋 『雷神』、衝撃的でした。一気読みさせてもらいました。

道尾 ありがとうございます。僕も以前から高橋さんの作品のファンだったので、そう仰っていただけてとても嬉しいです。

高橋 『雷神』では作品内に小さい仕掛けや印象的なエピソードが沢山あって、終盤にはそれぞれが有機的に絡み合っていきます。こんなにも練りに練り込まれた話はどうやって思いつくのでしょうか。

道尾 「作り込む」という点で、フィクションとノンフィクションはやはり大きく違いますよね。作品によって変わるのですが、今回は終盤に明らかになる大きな仕掛けをまずひらめいて、その後で物語の外側をつくっていきました。

高橋 ストーリーではなくミステリーの仕掛けの発想が先だったんですね!

道尾 編集者と雑談をしていた時にふっと、アイデアが浮かんだんです。それで後日、ありとあらゆるミステリーを読んでいる他の編集者に尋ねても「読んだことがない」と。その時、この作品は「いけるぞ」と思いました。
 逆にノンフィクションの場合は作品の「核」となるものって、どうやって見つけるものなのでしょうか。例えば『つけびの村』は、山口県で起きた連続殺人放火事件があって、それが報道された後、現場に飛び込んでいったんですよね。でもそこで何を見つけるかは、行ってみないとわからない。とはいえ、ルポやノンフィクションだって作品の「核」がないと読みものとして構築しづらい。

高橋 そうなんですよ。

道尾 「これは本になるな」って思ったのはどの段階だったんでしょうか。

高橋 それは「コープ(生協)の寄り合い」の話を聞いたときですね。逮捕された保見光成は、当時、近隣住民が自分のうわさ話をしていると「思い込んでいる」と報道されていた。でも、実際に現地で取材をするうちに、そのうわさ話がコープの寄り合いで本当にされていたとわかりました。その事実を知ったとき、思わず雑誌の編集者に「すごい話をきいたんです」とメールをしてしまいました。

道尾 コープの寄り合いのこと自体が全く報道されてなかったし、完全な新事実ですもんね。

高橋 うわさ話が保見を凶行に駆り立てた根源であったのではないかと、衝撃を覚えました。それまでは彼の生い立ちや抱えていた闇に迫る、といったノンフィクションではスタンダードな切り口から取材していたのですが、ガラッと構成を変えて、「人」でなくて、「うわさ話」を作品の中心に据えることにしたんです。

人を殺すのは凶器だけじゃない

道尾 『雷神』は新潟県の羽田上村という架空の寒村がメインの舞台ですが、編集者との打ち合わせでもよく「『つけびの村』がすごい」と話題になってました。

高橋 ありがとうございます。

道尾 村の空気感が本当によく再現されてるし、この事件がもつ物語としての不可思議さにとても刺激を受けました。僕はかねてから、人を殺すのは凶器だけじゃない、という思いがあるんです。『雷神』では30年前と31年前に起こった事件が現代にまでつながり、しかもそれぞれの何気ない思い違いやボタンの掛け違いが、さらに別の事件を呼び込んでいく。『つけびの村』で「些細なうわさ話が大事件の根源にあった」という事実を知り、現実にも小説のようなことが起こり得るんだ! と、創作への意欲と緊張感が一気に高まりました。

高橋 そう仰っていただけると、やる気が出ます。

道尾 「事実は小説より奇なり」という言葉が、僕は好きなんです。この言葉をしっかり心に刻んでいないと、事実を超える小説を書くことなんて出来ない。美味しいパンを知らないとそれより美味しいパンを作れない、みたいな。

高橋 道尾さんは普段からノンフィクションも読まれるんですか?

道尾 たくさん読みます。小説ばかり読んでいると、いろんな物語のパーツを切り貼りしたような作品を書いてしまう可能性がある。ノンフィクションを読んだり、生身の人間と付き合ってリアルなエピソードを聞いたり、そこで色々な感情を得ることがとても大事ですね。

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高橋 『雷神』の場合、情景や会話シーンに終始生々しさがあって、実際に様々な場所へ出歩いていないと書けないと思える緻密さだったので納得しました。
 あと、ミステリーの場合は、「凄い小説が書けた!」と思っても、ある程度の客観性が必要になりますよね。どこまで書いて、どこまで書かなかったら読者が一番納得できるのか。その確信はどうやったら得られるのでしょうか。

道尾 それはとても難しくて、刊行するときって、いわば「ぶっつけ本番」なんですよ。前もって試せない。担当編集者には事前に仕掛けを話してあるから、あんまり参考にならないし(笑)。
 初読の人の視点を想定しながら書けるようになったのは、作家デビュー以降ですね。書店に自分の本が並んでいるのを見て初めて、オブジェクティブに読むための思考回路が生まれてくれました。とはいえ、いまでも毎回、本が出るまではどんな感想が来るのか、ものすごく不安になります。

高橋 全く気持ちが冷めることなく、眠らずに読み通しました。しかも、『つけびの村』っぽい設定や描写がところどころあって、なんかいたたまれない気持ちになりました......(笑)。

道尾 『雷神』では主人公たちが、過去の事件の真相を明かすため羽田上村に潜入取材を試みますが、確か「週刊新潮」で連載中に、高橋さんがツイッターで「『雷神』の記者のふりして神社を訪れるシーンは自分が去年神社の祭りを見にいった時のことを思い出し、緊張して腹が痛くなった」と感想をくださって。

高橋 そう! 『つけびの村』の取材当時のことを思い出しました。

道尾 その言葉も参考になったんです。身分を隠して取材するのは、そんなに怖いことなんだと。

高橋 取材対象者を欺いて取材しているわけですからね。道尾さんも実際に体験したわけではないだろうに、その心理が描写できていて凄いな、と。

道尾 いえ、実はたまにあるんですよ。『貘の檻』という小説を書いた時は、モデルとなった長野県の村で取材をしました。米作りや暗渠の知識が必要で、地元の博物館に行ったんですが、質問しようにも「小説で殺人に利用したいんですが」とはさすがに言えない。農業を勉強している人を装って色々訊きまくりました。その時もドキドキしましたけど、それが現実の殺人事件に絡んでいる取材となるときっと怖さは段違いですよね。

知ってから行く/行ってから知る

高橋 羽田上村にいるテルちゃんという方言丸出しのキャラクター。愛嬌があって特に好きでした。

道尾 いいキャラですよね、彼女。地方を舞台にするときはいつもそうなんですけど、本作でも執筆前に、新潟弁の登場人物を出すにあたって、新潟弁に関する書籍や方言辞典を大量に買って読み込んだんです。それで「老人の言葉にはこれくらい方言がまじるだろう」と想像しながら書きました。最終的に出来上がった原稿を新潟出身の校閲者に読んでもらったら、どこにも違和感をおぼえなかったと言われて。

高橋 それはすごいですね!

道尾 自分は誰にでもなりきれるんだ、と自信が持てました。もちろん標準語で原稿を書いて、それを新潟弁に直してもらうことも出来たんですが、そうすると僕の小説じゃなくなってしまう気がして。だから、すべて書き上げてからチェックしてもらったんです。でも、ノンフィクションの場合は、出てくる人物が実在するわけじゃないですか。記事にするとき、人の言葉ってどれくらい再現するものなんですか?

高橋 『つけびの村』に関しては9割ぐらい再現していますね。方言もその地域の特徴の一つですし、村の雰囲気を伝えるうえでも重要だと思って。ただ、新聞記事などを読むと標準語に変わっている場合も多い。

道尾 ですよね。だからこそ、方言が使われている作品がより生々しく見える。

高橋 自分は現地に行って知り、それで「この言葉の意味ってなんだろう」と、あとから現地の図書館で方言辞典を調べます。あるいは当人に「それってどういう意味ですか」と訊くか。だからアプローチが全く逆ですね。

道尾 本当ですね。英語を勉強している人が、言われた意味がわからなくて後で辞書を引くのか、英語を勉強してから現地に行くのかの違い、みたいな。

高橋 でも、羽田上村があまりにもリアルに書かれているから、本当に存在するのか、とググってみたんですよね。それで全くの架空の村なのか、とわかって驚愕しました。

道尾 羽田上村に伝わる「神鳴講(かみなりこう)」というお祭りもないし。

高橋 ディテールがリアルなのであるものとばかり思っていました。

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道尾 いつもは必ず取材に行くんですよ。何泊かして、現地の空気を体に染み込ませて。夜は小さい飲み屋で常連さんと友達になって面白い話を聞かせてもらったり。今回は、このあたりの土地、と見当をつけたエリアはあったんですが、実際にそこへ行ってしまうと、物語のイメージからずれてしまうと思ったんです。だから、書き終えたあとで行きました。作中同様、きのこ狩りを体験してみたり。

高橋 体験したんですか!

道尾 コケ(きのこ)汁も飲んでみたり。実際、その地域の茶店で出していて。

高橋 味噌でといたような?

道尾 醤油かな。でも、それも先に飲んでいたら、その味に作品が引きずられていたと思います。今回は新潟県中越地震がストーリーに絡んできたりと、ファクトも色々と含まれてくるのですが、そうした歴史的事実以外の細かいディテールまで体験してしまうと、それをスケッチした描写になってしまう。コケ汁なんかは、全くのフィクションの方が美味しそうに書けるんです。

高橋 すごい面白いですね。フィクションのなかに事実が挟み込まれているからこそ、読者も凄いリアルに感じられる。でも、そのディテールには完全にフィクションのものも含まれていると知ると、いかに『雷神』という作品が緻密な設計でつくられているかがわかります。

道尾 作中に出てくる震災の話や石油の歴史、それこそ方言などはしっかり調べないといけないと思うのですが、架空のお祭りやきのこ汁については調べない。そのあたりの分別が最近上手くできるようになりました。

高橋 選別の基準はあるのですか?

道尾 特に決まりがあるわけではないんですけど、これは調べないほうが良いな、というのは書く前に感じます。

高橋 作家独自の感覚でしょうか。

道尾 鼻が利くようになったんですね。

教訓はいらない

高橋 あと、自分が書く記事については読者に学びとか教訓を与えたいとは思わないんですよね。与えられるほど偉い人間ではないですし。

道尾 僕もそうです。いままで、いろんな物語から教訓を学んできましたけど、それは僕が勝手に学んでいることで、教訓は書き手が決めて押し付けるものではない。

高橋 いろいろな人が異なるシチュエーションで読んでいるわけなので、それを「こう読め」というのはおこがましいなと感じてしまいます。

道尾 まさにそうですよね。

高橋 問題提起もできればしたくない。でも「それではだめ」という意見があることも重々わかっているので、出来る限り抵抗しながら書き続けていきたいなと。

道尾 高橋さんが思う、理想のノンフィクションってなんなんでしょう。

高橋 特に事件ものの記事って、読み手が無意識のうちに、善の立場に立っていることが多いように思います。「こういう状況はけしからん」とか「重要な問題提起だ」という感想をSNSに投稿して、消費してしまう。自分が信じたいことしか見ないわけです。でも、誰しもが犯罪者になることもあるし、犯罪者の家族になることもあり得る。
 そういう善の立場に立つ人たちが本当は隠している、見せたくない部分を刺激するようなものを書きたいと思っています。

道尾 悪人にも人生がありますもんね。「勧善懲悪」も、エンタメとして短時間で消費するぶんには好きですが、小説は時間も労力もかかるからそうはいかない。

高橋 私も映画では好きですね(笑)。勧善懲悪もの。確かに2時間で長編やノンフィクション一冊を読み終わるひとはいませんからね。

道尾 その点で『つけびの村』は、含みのあるメインタイトルがまず魅力的でした。タイトルからメッセージが読み取れないからこそ、人を惹きつける怖さがある。何が書かれているのか知りたくなる。

高橋 内容がすべてわからないからこその不気味さがあったということですね。『雷神』も、シンプルなタイトルが衝撃的な展開とマッチしていて素晴らしかったです。

道尾 『雷神』の場合は、『龍神の雨』『風神の手』と作品を出してきて、次は『雷神の○○』みたいなタイトルにしようと思っていたんですが、作品を書き上げたとき、これは『雷神』しかないな、と。

高橋 雷めっちゃこわくなりましたもん。

道尾 うれしいです。これで「神」三部作がそろいました。

高橋 その完結編とも言えますね。

道尾 それにふさわしい作品が書けたと思っています。

 (みちお・しゅうすけ 作家)
 (たかはし・ゆき フリーライター)

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