書評

2021年5月号掲載

グレイト・プリテンダーたちの闇の奥

磯部涼『令和元年のテロリズム』

青山真治

対象書籍名:『令和元年のテロリズム』
対象著者:磯部涼
対象書籍ISBN:978-4-10-102842-2

「同時代」と「同世代」は峻別すべきだが、そもそも何かが「同じ」であることを根拠に発生し言い寄ってくる同族意識を受容することはまずなく、ともあれ疑ってかかるきっかけは地下鉄サリン事件というか当時世間を賑わせたオウム真理教をはじめとする新興宗教ブーム、さらにそれと近接してあったオタク文化だった。今世紀の初めに公開された拙作「EUREKA」は、それなりにその時代の気分を反映した映画だったが、完成後、カンヌ出品の直前である前年の五月、物語の発端と類似したバスジャック事件が、舞台も同じ九州で起こった。これがトラウマとなり、以来同族意識への嫌悪に拍車がかかったのはもちろん、そのようなスキャンダラスな社会性に関わることじたいを極力忌避してきた。
 それから十九年が過ぎ、年号が変わり、本書で最初に扱われる「川崎殺傷事件」は起きた。当日朝からの報道で事件の詳細と犯人像が朧げに知らされ、ピンと来た。これは自分からそれほど遠くない存在が起こした、と。私と齢が三つ違いの加害者に関しては別の場所にも書いたのでここで繰り返さない。ただ、本書にとっても重要なファクターである、かれの二十年の引きこもりの絶望的な重さは、それまで世間を賑わせて来た様々な事件には感じられなかった。それらは畢竟犯人の過剰な「承認欲求」という用語で説明がつくことは本書も触れる通りだが、この事件は根本的にそこが違っている。著者は「彼がいた暗闇」を「深い、底が見えない穴」と書いたが、携帯電話もパソコンもなく過ごした二十年の想像不能の絶望には「承認欲求」などなかった。「本当に実在したのか」と怪しまれるほどだ。
 何かが「同じ」だと直感したからかもしれない。だが、いまだに何が「同じ」かは説明できず、ただ著者がテロリズムについて定義する時に使った「社会全体で考えるべき」という批評家・東浩紀のフレーズは少なくともこのわからなさをフォローしてくれるかとも思われる。情報を求めてテレビを追ううち不意に出くわした「死ぬならひとりで死ね」という言葉への強烈な違和・嫌悪も、瞬間的に自分が間違っているのかと怪しむほどこの「同じ」という言葉の曖昧な両義性に晒されるがゆえに発したものだったろう。いわばこうだ。
 私は「同じ」ではないのに「同じ」だ。
 この反復の居心地の悪さに耐えて立つことを、本書は読者にあえて求める。なぜか。もはや「先延ばし」にはできないからだ。社会学者・小熊英二が使った、社会が諸問題に対して取ってきた客観的な態度を示すこの「先延ばし」というタームにも違和が滲む。「先延ばし」ではなく「置き去り」ではないか。感傷的すぎるだろうか。だが、緊急事態宣言解除の報に解放された「ふり」をして路上で飲酒してみせる市民のように、「先延ばし」の客観性も「置き去り」が醸す感傷も、ともに「ふりをする」(pretend)として大差ないならば、一般化に向かう「先延ばし」ではなく個人に留まる「置き去り」の方が感覚として確かではないか。というのも、どうやら問題は「家族」であり、とっくに解体されたはずのこの概念にいまだ絶大な呪縛の力を与え続けるものが何かを暴くためには、各々個人において問い直すしかないからだ。
 本書後半で次々と明るみに出される「自殺」は令和二年の社会を騒然とさせた最大のイシューとして記憶に新しいが、その決して明かしえない原因を考察する不毛において確実にセットで語られるのも「家族」だった。しかもその半分は「80/50」問題、つまり早晩意識も定かでなくなる後期高齢者の親たちとして、人生を引きこもりで失った子供たちを前に言葉なく佇んでいる。No Country for Old People。「自殺」の影濃い高級官僚の長男殺しや京アニ放火事件にある「家族」の「ふり」をした「闇」の名を我々は未だ知らない。
 本書81頁の木の写真。金網の向うに並び建つ二棟の家の間に生え、または植えられ、長い年月をかけて人知れず肥大化し金網をも越えて此方に溢れ出たであろう過剰な異形は、往年の恐怖映画「マタンゴ」のキノコ人間を彷彿とさせる。だが本書を読んだ我々は、これら「置き去り」にされた人間たち、手を汚した者のみならず、自殺者、失踪者、「深い、底が見えない穴」の住人たち全員の影を、その「ふり」をするこの写真に見るだろう。
 あとがきで「日本で生きる人間のひとりとして自分も罪を背負う」と口走る著者に、私はつい「同じ」だと呟かずにはいられなかった。

(あおやま・しんじ 映画作家)

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