書評

2021年4月号掲載

老若男女の織り成す壮大な人間模様

宮本輝「流転の海」全九冊について

重里徹也

対象書籍名:「流転の海」シリーズ(新潮文庫版)全九冊
対象著者:宮本輝
対象書籍ISBN:978-4-10-130750-3

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 今年の一月中旬から二月末にかけて、コロナ禍の東京に居ながら、私は長い旅をしていた。それで、退屈なはずの日常が楽しくて豊かな日々に変貌した。
 実は宮本輝の「流転の海」シリーズ全九冊を一気に読んでいたのだ。すでに単行本が刊行された時に読んだものもあるのだが、全編を続けて読むことで、この大河小説がいかに魅力にあふれたものか、まざまざと実感した。これは偉業だ。驚嘆すべき仕事だ。
 物語は1947年に始まり、1968年に終わる。敗戦後の焼け跡から、高度経済成長へ。宮本の父親をモデルにしたという松坂熊吾を中心に、千数百人を超える老若男女が登場し、日本の戦後史が描かれていく。
 小説の視点は徹底して低い。絶えず、地べたのにおいが漂い、河川の流れる音が聞こえ、雑踏の声が響く。庶民たちが織り成す人間模様が次から次に展開される。私たちは、ある時には登場人物の突然の死に無常を思い、別の場面では裏切りに人間存在の本性を考える。男女の情愛に人生の深みを感じ、絆の強さに接して宿命の重さに驚く。
 舞台は大阪を中心に四国の南宇和(愛媛)、富山、金沢、兵庫県の尼崎市、城崎温泉などに移っていく。しかし、前面に出てこない土地もある。「東京」だ。これは「東京」抜きの戦後史なのである。「東京」はいつも遠くから距離を置いて眺める存在でしかない。はっきり言って、この小説に登場する人々は目の前の生活に必死で、そんなものにかかわりあっていられないのだ。
 流行歌もあまり出てこない。芸能やスポーツの話題は数えるほどだ。そういう安易な方法で時代が表現されることはない。逆に世界の出来事はスターリンの死去からベトナム戦争や文化大革命、ケネディ暗殺、大学闘争まで、登場人物たちが自分の見方で話題にする。
 主人公の熊吾はダンスホールの経営、中華料理店、プロパンガスの販売など、さまざまな仕事に手を染める。ただ、中心になって打ち込むのは中古車の販売だ。中古車部品の販売やモータープールの運営も含めて、商売の実態が生々しく描かれる。景気の浮き沈みに、人々はため息をつき、喜びに沸く。経済成長は自動車の普及とともにある。自動車を選んだのは熊吾ならではの読みだろう。自動車とは戦後日本社会の急所の一つなのだ。時代を表すのに、中古車は卓抜な鏡だと気づかされる。
 熊吾はバイタリティーにあふれ、エネルギッシュで全てのことに対して情が深い。そして特筆すべきことは、彼が市井の思想家でもあることだ。彼は思索し、あらゆる生活の場面で哲学を語る。
 いくつもの心に刺さる言葉が彼から発せられる。人間にとって大切なことは何か。日本人とはどういう民族か。戦後社会というものをどう考えるのか。戦争は人間のどういう性質をあらわにするか。自尊心よりも大切なものを持つとはどういうことか。ダメな教師とはどういうものか。私たちはしばしば立ち止まり、思いをはせることになる。
 そんなに人の世が見えている熊吾なのに何度も失敗する。脇が甘いし、誘惑に弱いし、自分の健康管理もできない。熊吾の妻である房江は苦労を重ねながら自身の生き方を見いだす。自殺未遂を経て、自立する女性として生まれ変わっていく。熊吾が五十歳になって初めてできた息子の伸仁は今度新しく文庫になる第九部『野の春』では大学生になって、文学とテニスとアルバイトと恋愛に明け暮れる。
 そう、この第九部でははっきりと時代が移り変わっているのを感じさせるのだ。ずっと読んできた読者は精神病院に入れられて死んでいく熊吾に何を思うのだろうか。味わいは苦くて複雑だが、主人公がやがて宇宙に還っていくような解放感を感じるのも確かだろう。
 登場人物たちの中から、自分の贔屓をつくるのも楽しい。私は断然、南宇和の鍛冶屋の男性と、茶道を追求する在日コリアンの男性に惹かれた。二人とも個性的な苦労人だ。南宇和の鍛冶屋は戦場でギリギリの体験をしてきたし、在日コリアンの男性は貧しく、日本語の読み書きも不自由だ。だが、二人とも人間としての芯がしっかりとしていて、それが表情にもしぐさにも表れている。この二人が小説に姿を現すと、私は何か、なごんだような気持ちになる。彼らが第九部でも登場するので心が弾んだ。
 一月から二月というのは、私の苦手な季節だ。寒さはどこまで続くのかとどんよりした空を見ていてつらいし、春はなかなかやってこないし、そのうち花粉症に悩まされる。毎年、とても長く感じる。ところが、今年はあっという間に過ぎていった。小説に読み浸る喜びで、時間の流れが速くなったのだった。

 (しげさと・てつや 聖徳大学教授/文芸評論家)

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