書評

2020年10月号掲載

「鏡」は先に嗤いだす

福嶋亮大『らせん状想像力 平成デモクラシー文学論

與那覇潤

対象書籍名:『らせん状想像力 平成デモクラシー文学論
対象著者:福嶋亮大
対象書籍ISBN:978-4-10-353561-4

 私たちはいま、狂った遠近法を生きている。
 たとえば、ちょっと名の売れた作家ならSNSのアカウントを持っていて、著作に込めた思いを直接伝えてくれる。話題の作品はすぐに映像化されて、演出家や出演者が「原作の魅力」を饒舌に語る。そちらのほうが読者の身体感覚でも「身近」に感じられるから、本書のような文藝批評――手の届かない遠くにある「作品の意味」を読み解くことで、書き手と読み手を媒介するタイプの書物は、近日めっきりみない。
 時間軸についてもそうだ。この春のコロナウィルス禍に際しては、「遅れた独裁国家」だったはずの中国が最初に発動したロックダウン(都市封鎖)を、欧米の「進んだ民主主義国」が陸続と模倣した。結果として「見習うべき国」の所在も転々とし、やれ世界で政府がいちばん賢いのは台湾だ、いやニュージーランドだといった議論が真顔でなされるほどにまで、私たちの空間認識もゆがみきっている。
 このとき、ふたつの立場があると思う。
 ひとつは、もはや「ポスト遠近法」の時代だと割り切ることだ。時間や空間といった、人間の感覚を中心において世界を腑分けする認識の枠組み自体が、ダサい。AIでも脳神経科学でもなんでもよいが、人の意識を経由せずダイレクトにモノとしての世界に触れうるツールを言挙げし、そちらこそが「リアル」だと宣言する。こうした立場にとっては、作家の感性なる不透明なデバイスから出力される文学というアウトプットは非効率の極みなので、もう、いらない。
 もうひとつは、狂気の下に留まる立場だ。正確に言うと、いまの時代には「おかしさ」があるという判断を保持し、観察者自身もまたその瘴気に侵されていることを自覚しつつ、混乱の源泉を見究めようとする態度である。
 本書が立つのは、むろん後者のスタンスだ。
 著者は目下の病の正体に迫るために、平成の三十年間に生じた小説の変容を俎上に載せる。「語り」「内向」「政治」「私小説」「犯罪」「歴史」の六つの切り口から、昭和の末期までは現実を映す鏡でありえたはずの文学という媒体が、いつ、いかにしてその鮮明さを失っていったのかが探究される。
 評者なりの語彙で乱暴に要約すると、三島由紀夫が腹を切るまでの「前期戦後」は、文学が鏡として機能することが自明の時代だった。続く――いわゆるポストモダンと呼ばれた――「後期戦後」の作家たちも、そうした前提へのアンチを演じるかぎりで、かろうじて作中世界を現実の縮図とする作図法らしきものを維持していた。だからW村上と呼ばれた春樹と龍とが、平成の前半にノンフィクションや経済評論へと筆を広げたのも、当時としては自然なことだった。
 しかし現実と小説をつなぐ遠近法の解体は、彼らの予想を超えて進んだ。エンタメ小説との境界では「狂った語り手」のモチーフが濫用され、女性の純文学作家はフェティシズム的な身体感覚への偏愛を表明して、標準化された「人間という幻想」を維持しえない時代の到来を告げた。かくして2011年の震災が文壇に再び「政治の季節」をもたらしたときには、ヤケクソに近い猥雑なカオスの煽動しかできないほど、文学が現実に対して切れる手札は尽きてしまっていた。
 性倒錯などの被虐体験を通じて他者との境界を無化する快楽を綴った往時の村上龍的な感性は、むしろ自己の輪郭がいかに曖昧になろうとも残り続ける怨念や敵対性の存在を、平成文学に刻印していった。初期の村上春樹が示した世俗から「適度な距離」をとる、日本の随筆文学の系譜をひく姿勢も、接続過多が常態となり誰もが即時のコメントを要求される今日のネット環境では、生き延びられそうにない。
 風変わりな副題に表れているとおり、著者はこうした平成の煮詰まった社会状況を「大正」になぞらえる。白樺派的なヒューマニズムに収斂したかにみえた大正文学は、テクノロジーないし革命思想によって既存の人間観を無効にする新感覚派とプロレタリア派に挟撃され、昭和の大波に飲まれていった。平成末期の日本文学もまた、フューチャリストとポリティカル・コレクトネスの双方から草刈り場のように侵食されて、「人間の真実を開示する」ことの特権性を誇ったかつての輝きは、とうにない。
 精神の病を体験した文豪は古今数多く、彼らの軌跡をたどる学問を病跡学というが、本書は作家個人ではなく日本という社会の全体が、病んできた過程を辿る稀有な営みといえよう。文学のよき伝統に則して、著者は安易な処方箋は示さない。しかし、病んでいるという自己認識を持つときに、あらゆる病は治癒への一歩を踏み出すのである。

 (よなは・じゅん 歴史学者)

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