書評

2020年9月号掲載

カーソン・マッカラーズ/村上春樹訳『心は孤独な狩人』刊行記念特集

いちばん最後までとっておいた翻訳作品

村上春樹

対象書籍名:『心は孤独な狩人』
対象著者:カーソン・マッカラーズ/村上春樹訳
対象書籍ISBN:978-4-10-204203-8

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 僕が翻訳を始めたのはもう四十年くらい前のことだが(小説家になるのとほとんど同時に翻訳の仕事をするようになった)、今はまだ始めたばかりだから実力的に無理だけど、もっと経験を積んで翻訳者としての腕が上がったら、いつか自分で訳してみたいという作品がいくつか頭にあった。言うなれば「将来のために大事に金庫に保管しておきたい」作品だ。
 たとえばそれはスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』であり、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』であり、J・D・サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』や『フラニーとズーイ』であり、トルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』だった。どれも僕が青春期に読んで、そのあとも何度か読み返し、影響を受けた作品たちだ。そこから豊かな滋養を与えられ、その結果自分でも(及ばずながら)小説を書くようになった、僕にとってはいわば水源地にあたるような存在だ。
 それらの古典、あるいは準古典作品にはもちろんそれぞれに優れた既訳もあるし、あえて訳し直すとなれば、僕としても十分な準備をし、それなりの覚悟を決めなくてはならない。ただ好きだからといって、簡単においそれと手をつけられるものではない。同時代の新しい作品を主に訳しながら、翻訳の技術を少しずつ身につけ、僕なりに腕を磨き、体制を整えた。
 けっこう長い年月を要しはしたが、幸運にも恵まれ、また良き協力者も得て、それらの「取り置き」作品のほとんどすべてをひとつひとつ順番に訳して、世に問うことができた。そしてあとに残されているのは、このカーソン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』だけとなった(いわばその準備段階として、まずもっと短い同著者の『結婚式のメンバー』を翻訳した)。
 僕が初めてこの『心は孤独な狩人』を読んだのは、大学生のときだ。二十歳くらいだったと思う。そして読み終えて、とても深く心を打たれた。もう半世紀も前のことだが、以来この本は僕にとっての大切な愛読書になった。他のマッカラーズ作品も、手に入るものはすべて読破した。そのようにしてマッカラーズは僕にとって、大事な意味を持つ作家になった。古今東西、女性作家の中では僕が個人的にいちばん心を惹かれる人かもしれない。
 僕がこの作品の翻訳を、いちばん最後までとっておいたのには(最後まで金庫に大事にしまっておいたのには)、いくつかの理由がある。ひとつには、それが今の時代の日本の読者に(とくに年若い読者に)、どれほどの共感をもって受け入れられるか、そのことに今ひとつ確信が持てなかったからだ。僕はこの小説を個人的にとても愛好しているのだが(そして僕の周りにもそういう人がけっこう多いのだが)、現在の若い読者がこのような物語をどこまですんなり受け入れてくれるか、ちょっと推測がつかなかった。前述したフィッツジェラルドや、チャンドラーや、サリンジャーや、カポーティに関しては、そのような危惧はほとんどまったく感じなかった。それらはきっと「今も同時代性を持つ古典作品」として受容されるだろうという確信があった。
 しかしマッカラーズに関してはどうだろう? もしこの作品が受け入れられなかったら、理解されなかったら......と思うと、個人的な思い入れがあるだけに、けっこう心が痛んだ。
 マッカラーズの小説世界は、言うなれば個人的に閉じた世界でもある。それはマッカラーズによって語られ、描写されるマッカラーズ自身の心象世界だ。そこに出てくる人々は、それぞれの異様性を背負い、それぞれの痛みに耐え、欠点や欠落を抱えつつ、それぞれの出口を懸命に探し求めている。しかし多くの場合、その出口は見当たらない。そしてその「出口のなさ」にこそ、実はマッカラーズの小説作品の真骨頂みたいなものがある。その世界における夜は暗くて長い。とはいえ夜はもちろんいつか明けて、朝が訪れる。しかし朝は来ても、そこで明確な解決策が示されるわけではない。人々はそのような宙ぶらりんの状態に置かれたまま、新たな夜の到来を待つことになる。僅かな――しかしきらりと小さく光る――希望を持って。
 そういう人々の痛みや欠落や異様性を描くマッカラーズの筆力は実に見事だ。それはおそらく彼女にしかできない特殊な作業だ。繊細で、大胆で、恐れることを知らない。そしてまたしたたり落ちるように美しくもある。このような姿勢の良い骨太の、そして心優しい長編小説が、南部の田舎町から出てきた二十歳そこそこの娘によってあっさり書かれてしまったというのは、ほとんど信じがたいことだ。当時のアメリカの人々にとってもまた、それはやはり信じがたいことであったようだ。そして彼女は一時期「天才少女」として脚光を浴び、世間にもてはやされるのだが、それは傷つきやすい繊細な心を持ったマッカラーズにとっては、あまり座り心地の良いポジションではなかったようだ。人生はマッカラーズにとって、決して安全で優しい場所ではなかった。
『心は孤独な狩人』は発表後八十年ばかりを経ているが、今でもアメリカ本国では広く読み継がれる古典作品となっている。それなりの規模を持つ書店であれば、全国どこに行ってもこの本は書棚に常備されている。マッカラーズはこの他にも何冊かの優れた作品を書いているが、本書がなんといってもその代表作であり、もし仮にこの本一冊しか書かなかったとしても、彼女はおそらくアメリカ文学史に名を残したことだろう。
 ただこの本に含まれる独特の「重さ」は、今日の日本の読者にはあまりなじみのないものかもしれない。1930年代後半のアメリカ南部の小さな街。十年近くにわたって経済不況が続き、多くの人々は生活苦に喘いでいる。非人間的な厳しい人種差別があり、構造的な救いがたい貧困があり、持つものと持たざるものとの間の激しい階級闘争がある。知的な黒人医師は人種差別と必死に戦い、アナーキストのブラントは資本主義制度の矛盾を打ち砕こうと苦闘している。「公正さ」を目指す彼らの努力はどこまでも真摯なものだが、他者との共感を欠いて、常に空回りしている。そのせいで二人は共に孤独な、孤立した存在となっている。またいくつかの共通項を持ちながらも、その二人が理解し合い、協力し合うような事態はもたらされない。
 町外れのカフェの主人は自らの「不適切な」性的欲望に終始苦しみ、主人公の少女は何かを熱く切望しながらも、自分の心をひとつにまとめることができない。そして一人の物静かな聾唖の男(シンガーさん)は、そのような周囲の人々の様々な形状を取った苦悩を、深い沈黙のうちにそのまま受け入れ、まるでスポンジのように自らの身に吸収していく。彼一人だけが愛というものを堅く一途に信じているが、最後の最後までその思いが報われることはない。そして結局は絶望の淵に静かに沈んでいく。
 ヨーロッパではドイツとイタリアというファシスト国家が威力を持ち、やがて大きな戦争が始まろうとしている。戦雲が刻々と広がっていく(第二次大戦の火ぶたが切って落とされたその日にこの物語は終わる)。そんな重苦しい時代環境の中で、主人公の少女はあちこちに頭を打ち付けながら、徐々に成長を遂げていく。しかしすべての登場人物に関して、ハッピーな結末はそこには暗示されていない。誰もがそれぞれの孤独な部屋に閉じ込められ、そこから彼らが救われる可能性はとても薄いように見える。
 こうしてみると、ずいぶん切ない話だったんだ、ずいぶん暗い時代だったんだと翻訳しながらあらためて思った。こんな長くて救いの見えない物語を、現代の読者にうまく受け容れてもらえるものだろうか? 正直なところ、僕にはもうひとつ自信がない。
 それでも、考えてみれば、状況は今でも基本的には何ひとつ変わってはいないんだという気もしなくはない。世界中で貧富の格差はどんどん広がっている。人種差別はいまだに厳然と残っている(制度としての差別はいちおうなくなったものの)。幼児性愛傾向を抱える人や、同性愛や、それぞれの異形(いぎょう)性に人知れず悩み苦しむ人も少なくないはずだ。人々は共感や共闘を求めるが、それを見つけるのは簡単なことではない。そしてそのような悲しみに満ちた世界を広く見渡し、細部を克明に描きあげるマッカラーズの鋭い観察力と筆力は、この現代においても変わることのない有効性を持っているように、僕には思える。そして――これがなにより大事なことなのだが――そのような人々の姿を描写するマッカラーズの視線はどこまでも温かく、深い同情と共感に満ちている。そう、それこそがこの『心は孤独な狩人』という小説の最も美しく、そして心を打つ点なのだ。
 一人でも多くの人にこの物語を読んでいただき、いろんな意味合いで心に刻んでいただければと思う。ここにあるのはかなり遠い過去の声だが、それは今でもしっかり我々の耳に届く声でもあるのだ。
(「訳者あとがき」より抜粋)


(むらかみ・はるき 作家)

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