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書評・エッセイ

「感染」と「規律」

ミシェル・フーコー『監獄の誕生 監視と処罰〈新装版〉

慎改康之

 都市は封鎖され、外部との交通が完全に遮断される。個々人は自宅にとどまるよう命じられ、街路には違反者を厳重に取り締まるべく警備の目が光る。生者、病者、死者が判別され、記録されて、中央にその情報が集められる――ペストに対して定められた十七世紀末の措置をこのように提示しつつ、ミシェル・フーコーは次のように述べる。ここに見いだされるのは、「規律」が完璧なやり方で機能する社会をめぐる政治的な夢なのだ、と。
「規律」とは、一九七五年の『監獄の誕生』においてフーコーが、すべての人々を一様に管理し監視しつつ「従順かつ有用な」個人をつくり出そうとするものとして特徴づける権力形態のことである。フーコーによれば、十七世紀から十八世紀にかけての西洋におけるこの権力形態の発達こそが、身体刑から監獄へという処罰形式の根本的変化をもたらしたのだという。すなわち、自らの圧倒的な支配力を見せつけることで機能する「君主権的権力」から、一人ひとりを絶えず注意深い視線のもとに置こうとする「規律権力」への移行によってこそ、公衆の面前で身体に過剰なまでの苦痛を与える刑罰から、塀のなかに閉じ込めて矯正を試みる刑罰への変容が起こったのだ、と。十八世紀末の監獄の誕生は、「規律社会」の形成によって可能になったのだということ。監獄とは、学校や兵舎などと同様、人間の「規律化」のための場所であるということだ。
 そしてそのようなものとしての「規律権力」が、どうしてペストへの措置のなかに自らの夢ないし理想を見いだすのかということも、容易に理解されるだろう。個々人が一つの場所に固定され、わずかの動きさえもが管理され、あらゆる出来事が記録され、何もかもが恒常的に検査されるという、こうしたすべてが、「規律装置」の見事なモデルを構成しているのだ。そしてそのような装置の背後に読み取られるものとしてフーコーが挙げているのが、「感染」への恐れである。病の感染への、さらには違反や反抗などといった「無秩序」の感染への恐れ。そうした恐れを糧としてこそ、「規律」が肥大するのだ。
 もちろん、十七世紀末の措置に関する『監獄の誕生』の記述に、我々が生きる現在の困難な状況を安易に重ね合わせてはなるまい。それに、一九七六年の『性の歴史』第一巻『知への意志』においてフーコーは、もう一つ別の権力形態を新たに標定し、その輪郭を粗描することになる。「規律権力」にやや遅れて登場したとされるその権力は、個々の人間ではなく、生物学的集合体としてとらえられた人間を標的とするものであるという。すなわちそれは、個々人の行動の細部にまで介入しようとする代わりに、一つの生きた集合に生じうるさまざまな偶発的出来事に均衡や安定をもたらすべく介入し、一人ひとりに対してはむしろ一定の「自由」を保証しようとする権力なのだ、と。そしてフーコーは、それぞれのやり方で人間の「生」に積極的にはたらきかけようとするそれら二つの権力が、多くの場合、互いに連動して作用するものであることを強調するのである。
 しかし、現在のこのまさしく例外的な状況において我々が目の当たりにしているのは、全体的なリスクやコストの「調整」と、個別的な「規律」とのあいだの、大きな葛藤であるように思われる。そして「感染」が拡大し、恐怖が増大すればするほど、「規律」への傾向がますます強まっていくように思われるのだ。しかもそうした傾向は、少なくとも我々が生きるこの社会においては、統治する側よりもむしろ統治される側において顕著であるようにすら見える。より厳重な管理が、より強力な封じ込めが望まれる。「秩序」を乱す者は狩り立てられ、激しく糾弾されて、個人の特定さえもが企てられる。権力は、権力を「持たない」とされる人々を拠り所として機能するという、やはり『監獄の誕生』の主要テーゼの一つをなすこの言明をなぞるかのように、「監視と処罰」への希求が、いわば下から溢れ出しているのだ。
「権力の中心的問題とは、「自発的隷従」の問題ではない」とフーコーは別の場所で語っていた。実際、我々が現在直面しているのはおそらく、隷属への欲望よりも少々複雑な何かであろう。そしてその何かを思考するために、『監獄の誕生』は、権力をめぐる詳細な歴史的分析を展開したフーコー唯一の著作として、今なお有効な「道具」を我々に提供してくれるように思われるのだ。

 (しんかい・やすゆき フランス思想)

ミシェル・フーコー/田村俶訳『監獄の誕生 監視と処罰』〈新装版〉978-4-10-506709-0