書評

2020年5月号掲載

チョイとひと舐めしてみたい、風味絶佳の半生記

小泉武夫『食いしん坊発明家』

平松洋子

対象書籍名:『食いしん坊発明家』
対象著者:小泉武夫
対象書籍ISBN:978-4-10-454807-1

 最初、「え?」と思ったのだ。この冒険譚の題名「食いしん坊発明家」は、「そのまんまではないの?」と、一瞬ぽかんとしてしまった。食べ物を掘り起こし、発酵の世界を微細に解きほぐし、未知の扉を開け続けてきた著者、小泉武夫そのひとこそ、食いしん坊の先頭をひた走る冒険者であり、味覚という大いなる創造力に挑む発明家どうぜん。そう思いながら畏敬の念を抱いてきたから。
 血湧き胸躍り、ついでに唾液も溜まるいっぽうの「食いしん坊発明家」半生記。主人公の「俺」が、食欲と好奇心の趣くまま、つぎつぎに風味絶佳を世の中に送りこむさまを描く。発想から着地、特許取得にいたるまでのあの手この手を開陳する全八章、いずれも最大の妙味は、わかりやすく解説される食品化学の道理と筋みち。唾液を溜めながら知識欲も充たされるのだから、やっぱり「味覚人飛行物体」、小泉武夫にしか書き得ない物語なのだ。
「俺」の創造力のルーツは、福島県の阿武隈(あぶくま)高地にある生家「泉山酒造」にある。江戸末期から続く八代目の酒蔵で、当主を務める父とのゆるやかな関係がガキ大将の野球少年を奔放な食いしん坊に導く。幼児の頃はおしゃぶり代わりに身欠(みが)きにしんを握らされ、中学一年のときには父を手玉に取って、自分で捕まえた泥鰌(どじょう)でひと儲け。通学鞄にはイワシの醤油煮、サンマの蒲焼き、サバの味噌煮などの缶詰、醤油や箸やマヨネーズまで詰め込み、「歩く食糧事務所」と揶揄される筋金入りの食いしん坊。高校時代の好物は鴨や鯨(くじら)の味噌漬け、塩ほっけの焼き物......シブいというより、いきなり味の王道をゆく横綱相撲だ。
「俺」が忘れられない味として語る「泡汁」というものを、私は読んで初めて知った。酒のもろみが発酵する過程で立ち昇る泡の精。これを塩ブリや大根、こんにゃく、油揚げなどを煮た汁に入れると「真っ白い雪鍋のようなもの」になり、「粕汁などとは比較にならないほど気品にあふれていた」。酒造家秘蔵の食べ物に地団駄踏み、やたら味蕾が疼く。儚くて美しい大小の白い泡が、なにやら発明家のロマンにも重なって見える印象的な場面だ。
 破竹の勢いで特許を取得してゆく豊かな知識、茶目っ気、実行力。「俺」が少年の頃憧れた「鉄腕アトム」の天馬博士やお茶の水博士の向こうを張る。なにしろ聞いたことも見たこともない、あっと驚く食べ物ばかり。牛乳と米で作るライスチーズ。かぼちゃのでんぷん質や繊維を米麹で分解して作る「黄色い砂糖」。余り物を捨てずに使ってつくる野菜醤油。海老の殻を手に入れてこしらえる海老風味のラード。にんにくをじりじりと揚げて固めたニンニクラード......ね、辛抱たまらんでしょう?
 チョイとひと舐めしてみたい、焦れて焦れて切ない気持ちになってくるのは、これらが空想上の突拍子のない食べ物ではなく、食品化学に基づく製造過程がことこまかに書き込まれ、おおいに実在感にハクをつけているからだ。ライスチーズに挑むくだりを見よ。生米を牛乳に浸す場面に始まって、炬燵(こたつ)からおそるおそるタッパーを取り出し、ついに成功するまで六ページにおよぶ取り組みが涙ぐましく、屋根裏からこっそり実験室の悪戦苦闘を覗き見ている気分を味わう。
 脇役の男たちが、スルメみたいないい味を出している。夢を食う獏(ばく)のような息子を放し飼いにして、「しかしお前(め)えは大したもんだわい」と巧みに泳がせる父。料理上手な番頭の富治(とみじ)さんは超有能なアシスタント。特許事務所の高橋先生は、発明品を喜び勇んで持ち込むたび太鼓判を押して世の中に送り出し、「俺」のロマンは独り立ちしてゆく。
「いつも『食いしん坊』というもう一人の自分を背後に置いて」発明と向き合ってきた、というくだりがある。そう、「食いしん坊」とは自己発見をうながす有能な一大装置なのだ。あるいは、このくだり。「いつも心を大きく開いて考える俺にとって、いつも口を大きく開いて食うこととは阿呍(あうん)の関係のようなもの」。心の間口を思いっきり大きく広げるおおらかな生き方と人柄は、もちろん小泉武夫そのひと自身である。
 幼少期の記憶を潤沢に綴る一篇「食いしん坊ガキ大将」を附す。

 (ひらまつ・ようこ エッセイスト)

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