書評

2020年1月号掲載

苦しい恋と創作。奥底を覗き込んで

夏樹玲奈『なないろ』

一木けい

対象書籍名:『なないろ』
対象著者:夏樹玲奈
対象書籍ISBN:978-4-10-353011-4

 高架鉄道BTSの駅で電車を待ちながら、道ゆく人をぼんやり眺めていたときのことだ。ふいに、バックパックを背負った女性が道端にしゃがみこんだ。大きな排水溝に顔を近づけ、携帯電話をかざし、内部を光らせている。何か落としてしまったのだろうか。妙に気になって見ていると、彼女がぱっと上を向いた。その顔には、恐怖と同量の昂奮が浮かんでいた。数名の通行人が、彼女といっしょに排水溝の奥を覗きはじめる。撮影し、笑ったり、大げさに震えたりする。身振り手振りから察するに、そこには大きな生き物がいるようだった。それが何なのかは、ホームという高いところに立っている私からは見えなかった。
 夏樹玲奈さんのデビュー作『なないろ』を読んだとき、この出来事を思い出した。『なないろ』は、著者が自分の奥底にあるものを怖れず直視して書き上げた小説だ、と思った。
 物語は、第17回女による女のためのR-18文学賞読者賞受賞作「空におちる海」からはじまる。主人公のよしこは、叔父の英司と暮らしている。ずっと彼のことが好きで、諦めきれない。その生活に沖縄出身の青年、勝也が加わる。
 三か月後、よしこは、布団からはみだした四本の足首が不自然に絡まっている現場を目撃する。英司と勝也の脚だった。強烈に惹かれ合うふたりを、よしこは一番近くで見ることになってしまう。
 ある日、勝也がいなくなる。彼を探すため、よしこは英司と沖縄へ向かう。好きな人の好きな人を探す旅だ。
『なないろ』で描かれる柱のひとつが、手に入りそうもない人を想う苦しみである。
 私は、片想いとは、相手を勝手にスーパースターにしてしまうことだと思う。その人のすばらしいところばかりに目がいき、冷静さをうしない、判断を誤る。恥ずかしい自分、醜い自分があふれだす。
『なないろ』にはそのみっともない本能に溺れてしまう人たちが、生々しく、けれど抑えた筆致で描かれている。新鮮な色気が、行間のあちらこちらから立ち昇る。

 みっともない自分をさらす、苦しい恋と創作は似ている。
『なないろ』で描かれるもうひとつの柱が、何かをつくりあげることによる救いだ。
「みどりの箱庭」は生きづらさを抱えた少女の話。私はこの短篇の世界から抜け出すのに苦労した。みどりは私だ、と感じる読者が大勢いると思う。自分は親から愛されていないのではないか、という不安がみどりにはある。その上、奇妙な幻は見えるし、パニック障害のような症状も出る。
 苦しいとき、みどりは香りにたすけてもらう。家庭の問題、ややこしい級友、過去のいじめ。息が吸えなくなったら逃げて、香りのバリアをまとう。そうすれば毅然とできる。香水が彼女の守り神だ。
 校舎の裏にある森のベンチで、みどりは先輩と出会う。彼は水泳部で、爽やかだけど色っぽくて、映画の脚本を書いている。彼との交流を通して、みどりは少しずつ自分の弱さを受け入れていく。そして自分を守ってくれるもの、つまり香水を、自分でつくりはじめる。最初は自分のために。そして、
「自分のために作ったものが、みんなのものになる」。
 完成した香水を持って、みどりは先輩のもとへ走る。
『なないろ』にはほかにも、酒をつくる人、役者として作品をつくる人など、何かをつくる人たちが登場する。彼らは手探りで、残っているものを消して、何度も死んで生き返って、まっさらになって、つくり続ける。
「植物が発するこの匂いの主成分はフィトンチッドという物質で、人間には癒し効果があるけど、細菌や小動物にとっては毒になる」とみどりは知っている。
 小説も同じだ。ある文章が誰かを絶望から救い、同時に別の誰かを深く傷つけることがある。それでも生身を恥をさらしながら、自分の深暗部を覗き込み、覚悟を持って書き続ける。
「私はこれから未知の海原に漕ぎ出す泥船を、せっせとひとりで固めてつくる。海に出るのも、舵をとるのも、溺れるのもひとり。無事に渡りきって、周りを見渡しても、ひとり」
 できたての香水を首筋にしのばせ、みどりは決意する。
「この先に何があるのか知りたい」
 あの排水溝の下にいたのは、大蛇か、オオトカゲか。それとも、見たこともない何か。
 そこには書いてはいけないものがあるかもしれない。だからこそ書かれるべきものかもしれない。
 夏樹玲奈さんは、これからも読者が胸かきむしる作品を生み出すだろう。自分の奥底をしっかり覗き込んで。

 (いちき・けい 作家)

最新の書評

ページの先頭へ