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書評・エッセイ

特集 吉田修一の20年

「吉田修一小説」と私

4人のプロフェッショナルが掬い取った「人と作品」

コントロールから離れて

朝井リョウ

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『東京湾景』

 吉田修一の小説は、"溢(あふ)れる"。
 どの作品を読んでいるときも、あ、と気づいたときにはもう遅く、何かがこの心身から溢れている。ずいぶんと長く住み慣れたはずのこの心や体が、自分が想定していたよりもずっと容積が小さく、外壁の造りもとても脆(もろ)いということを、登場人物たちの印象的な言動の数々によって思い知らされるのだ。
 品川埠頭(ふとう)の倉庫で肉体労働に勤(いそ)しむ亮介と、台場に聳(そび)え立つオフィスで働く美緒。主にこの二人の変わりゆく関係性を描いた本作でも、様々な形で"溢れる"瞬間が描かれており、その都度、読み手である私たちも同様の感覚に陥るのだ。
 亮介が、かつての恋人の親族の前で、自分たちの心の繋がりを証明するために自らの身体に火をつけたシーン。この過去を語るとき、亮介は、かつての自分は「ついカッとなっ」たのだと話しながら、「とつぜん声を荒らげた」りする。かつては心の繋がりを信じられたはずの自分を振り返りながら、亮介は自分をコントロールできなくなる。
 美緒が亮介に、亮介の勤め先である品川埠頭の倉庫で朝まで過ごしたいと明かすシーン。人を信用する難しさを説きながら、美緒は「自分でも支離滅裂なことを言っているのは分かったが、口から飛び出してくる言葉を止められな」い。美緒も、自分をコントロールできなくなる。
"溢れる"とはつまり、自分をコントロールできなくなる瞬間のことで、この二人を主語にしない場面でもそんな瞬間が数多く物語に鏤(ちりば)められている。突然自殺をしてしまったかつての同級生。真理が亮介に対し「二股かけてくれればいいじゃない!」と喚(わめ)く夜明け。目を瞑(つむ)ったって操縦できると思っていた心と体がそうではないと気づく一秒前、自分自身という器から、コントロールできない言葉や行動が溢れ出ていく。
 吉田修一は、その描写がとても巧みだ。物語の中で、誰がいつどのように溢れるのか、予想がつかない。だから、読みながら、常にどこか緊張感がある。油断ができない。そして、いざ溢れたとして、登場人物たちの足元に飛び散った何かに余計な言葉を当てはめない。この人がなぜこんな行動に出たのか、どうしてこんなことを言ったのかという問いに、じゅうぶんな答えを与えない。そうされると、私たちは想像するほかなくなる。本人たちも気づかぬうちに彼らの内部に溜まっていたものとは何だったのか。そして、彼らの足元についに飛び散ったものはどんな感情なのか。いやでも想像させられる。そして想像力とは結局、自分のこれまでの人生が作り出すものである。だから私たちはいつしか、吉田修一の小説を読んでいると、自然と自分の人生を差し出しているような気持ちになるのだ。
 本作の"溢れる"描写の究極は、本編のラストシーン、品川埠頭にいる亮介が、台場にいる美緒に向かって、東京湾を泳いで渡って会いに行くと宣言するところだろう。もちろん美緒は、亮介の発言を冗談だと受け取る。だが、電話越しの亮介の様子からは、冗談という言葉では済ませられないような何かが溢れ出ている。美緒は、「亮介のからだではなく」、そこから溢れた「彼の何かが、東京湾をまっすぐに、今、自分のほうへ泳いできている」と感じるのだ。
『東京湾景』が出版されたのは今から十六年前、二〇〇三年のことだ。そして、作中ではりんかい線が開通したという描写があるため、物語の時間軸は今から二十三年ほど前、一九九六年あたりだと予想される。恋人同士の主なやりとりが、ラインやSNSではなく声色の分かる電話だった時代。大切な人がいる場所に辿り着くまで、今よりは手段も少なければ時間もかかった時代。言い換えれば、その分、心身から何かが溢れる機会が多かった時代なのではないだろうか。
 今回書き足された新編は、本編からは二十年後、すなわち二〇一九年現在とほぼ誤差がない世界が舞台となっている。スピーディにやり取りができるよう連絡手段が進化した今、マッチングアプリを常用している世代などからすると、美緒が素性を隠して亮介と出会うことへの驚きは少ないだろう。この海を突っ切ることができれば、などと考えなくとも行きたい場所にすぐ辿り着ける今、亮介の宣言は当時とは異なった響きを持ちそうだ。あらゆるものが発達し、生活が便利になったことで、心身から何かが溢れる機会は減少している実感がある。
 ただ、そうなったとしてもやはり"溢れる"瞬間を描いてくれるのが吉田修一だ。新編に登場する大輝と明日香はいかにも現代の若者だが、そんな二人も「用意していた言葉ではなかったが、勝手に口からこぼれた」と描写せざるを得ない一瞬や、「なんでこんなこと大輝くんに言ってるのか、自分でも分からない」と呟いてしまうような場面に見舞われる。描かれすぎない二人の人生が交差する点として亮介のあの宣言が現れるとき、時代は変わっても私たちはやっぱり、"溢れる"瞬間からは逃れられないことを実感する。それはつまり、私たちはこれからもずっと、吉田修一の小説から逃れられないということでもある。

 (あさい・りょう 小説家)

吉田修一『東京湾景』(新潮文庫)978-4-10-128758-4