書評

2019年8月号掲載

「絶滅」という物語

池田清彦『もうすぐいなくなります 絶滅の生物学

養老孟司

対象書籍名:『もうすぐいなくなります 絶滅の生物学
対象著者:池田清彦
対象書籍ISBN:978-4-10-103532-1

 本のタイトルを見た瞬間、自分のことかと思った。むろん私は間もなく「いなくなる」からである。現代日本は人口減少で、ということはつまり生まれてくる人より、いなくなる人の方が多いということである。こういう時代に、絶滅に関する本が出るのは、時宜を得ているのであろう。子ども向けだが、丸山貴史著『わけあって絶滅しました。』も数十万部、売れているという。
 それにしても絶滅とは、極端な言葉ではないか。「絶」に「滅」が付いている。絶対に、なにがなんでも、いなくなりそうである。この言葉自体がどこか情動を刺激する。絶滅とはどういうことなのか。その連想はもちろん、そのまま自分自身の死にもつながる。
 子どもの頃に『モヒカン族の最後』という本の宣伝を見て、どうしても読みたくなった記憶がある。そこにはインディアンの少年が弓矢を持って何かを狙っている絵が描いてあった。この少年こそが「最後のモヒカン族」に違いない。「モヒカン族の最後」ではやや上から目線になる。あまりロマンチックではない。絶滅はやはり総論より各論が身につまされる。自分が絡んできてしまうからである。
 著者の池田清彦は、絶滅という主題を徹底して客観的に論じる。絶滅という言葉が含む情動性に気づいているからであろう。情動は科学ではない。科学の背後に動機として隠れているものである。絶滅するのはいったい何なのか。はたして遺伝子か、種か、大きな分類群か。恐竜なら、鳥になって生き延びてしまったではないか。絶滅を語る時、論者ははたして絶滅とは何を意味するか、明確に考えているだろうか。そこを池田は丁寧に、鋭く突く。
 著者がそうした問いを発すると、読者としての私はつい別なことを考えてしまう。絶滅とは、いうなれば時を乗り越えられないことである。でもそれは時間を客観的に、つまり「上から目線で」見るからではないか。生の時間そのものを考えれば、ただいま現在しかない。「俺は死んだなあ」と慨嘆するなら、慨嘆している本人は生きている。むろんこの自分からの目線は科学にはない。自分目線は現代科学では主観と言われ、消されてしまうからである。
 でも私は神様ではない。神でない自分が「上から目線」を採る。それを可能にしているのは、現代思想の背景が結局は一神教だからではないのか。そこでは神の目線が暗黙に前提されている。医学では患者は検査値の集合となり、病は統計値として扱われる。これはまさしく神の目線というしかない。だから現代の医師は患者の余命を宣告する。それは神のみぞ知るはずなのに。
 しかも、とヘンな思いが続いて生じてしまう。絶滅や進化は時間の中で起こる。でもそれを叙述するのは言葉である。かつて池田自身、「科学とは変なるものを不変なるものでコードする」ことだと喝破した。言葉は「不変なるもの」である。時間とともに変化しないからである。私の書いた原稿はいつまでも残っている。その不変なるもので、変なるもの、すなわち時間とともに変化するものを記述する。それはそもそも可能なのだろうか。言い換えれば、そこでは何が可能で、何が不可能なのか。
 本を読むには時間がかかる。書くのにもむろん時間がかかっている。この二つの時間はたがいに、いわば具体的に相応している。だから私はそこには問題を感じない。でも進化や絶滅という、記述の中で論じられている時間は、人生から思えば、とてつもなく長い。その時間はどこにあるのだろうか。
 それは意識の中にあるというしかない。日本列島は千五百万年くらい前に成立したらしい。でもその時間は意識の中にしかない。これも時間に関する神様目線のように思えてくる。もちろん地質学者は年代測定を行い、化石や石ころを探してきて、こうした年代を「確定する」。でもそれはどういう意味で「確定」なのだろうか。
 べつに私はゴネようと思っているわけではない。進化論がいわば百家争鳴みたいになるのは、深層に含まれた時間の問題ではないだろうか。時間の中に生起する出来事を扱う時に、われわれの意識が発明した唯一の方法が物語なのではないか。だから人は歴史を書き続け、しかもそれはつねに物語に終る。進化もまた同じに違いない。
 歳のせいか、近年そんなことを想ったりするのである。

 (ようろう・たけし 解剖学者)

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