書評

2019年8月号掲載

『カリ・モーラ』(新潮文庫)刊行記念特集

老獪かつ若々しいハリスの最新作

トマス・ハリス『カリ・モーラ』(新潮文庫)

三橋曉

対象書籍名:『カリ・モーラ』(新潮文庫)
対象著者:トマス・ハリス著/高見浩訳
対象書籍ISBN:978-4-10-216710-6

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 燦々と陽光降りそそぐアメリカ東南端のリゾート地フロリダ。大富豪たちの邸宅が立ち並ぶマイアミビーチの一画を占めるミリオネアズ・ロウ(百万長者通り)に、ひと際目を惹く豪勢な屋敷がある。
 ビスケーン湾を周遊するクルーズ船も、岸辺にさしかかると映画「スカーフェイス」のテーマ曲を流し、カメラを向ける観光客たちのために速度を落とすという。打ち棄てられて久しいが、かつては南米の麻薬王のものだったこの大邸宅の雇われ管理人が、映画でいう本作のタイトル・ロール、カリ(本名カリダ)・モーラの仕事である。
 作者のトマス・ハリスは、多くの読者に精神医学の専門家と連続殺人犯(シリアルキラー)の二つの顔を持つ悪魔的な人物の生みの親として記憶されているに違いない。前作『ハンニバル・ライジング』では、その稀代のアンチ・ヒーロー、ハンニバル・レクターの知られざる生い立ちが詳らかにされたが、ここにご紹介する十三年ぶりの新作『カリ・モーラ』は、なんと二十五歳、獣医という夢に向かって奮闘中のフレッシュなヒロインが大活躍する犯罪小説だ。
 ベトナム帰還兵が企むテロと戦うモサドのエージェント(『ブラック サンデー』)や、サイコキラーやFBIのプロファイラー(レクター・シリーズ)の前では、この獣医志望の女主人公は、ややもすると拍子抜けの感を否めない。しかし、ひよっ子だった捜査官の卵が逞しく成長を遂げていったクラリス・スターリングの例を思い起こせば、あながち奇を衒ったものではないことに気づく。
 カリは内戦状態にあったコロンビアで生まれた。十一歳で反政府ゲリラに入隊して戦闘も経験し、地獄も散々見てきたが、九年前に命からがら母国を脱出し、色々あってこの町に落ち着いている。今も苦難は絶えないが、退去命令に怯える移民の不安定な身分に甘んじつつハイスクール修了の資格も取った。現在は鳥類や小動物の保護センターでのバイトの合間に、見よう見真似で獣医の仕事を学ぶ毎日だ。
 作者は、この前向きな生き方をするヒロインの日常を、清々しいほどに肯定的に描いていく。同じ町に暮らす従妹の子どもに惜しみない愛を注ぎ、カリに気のあるプールの修理工や老庭師との温かい関係など、屋敷に出入りする職人たちとの間に醸し出す空気も爽やかで心地よい。その一方で、悪党は悪党らしく、とばかりに極めつきのワルたちを登場させ、彼らの悪巧みを克明に描いていく。
 物語は、マイアミとバランキージャ(コロンビア)という、カリブ海をはさんだ二つの都市からの二元中継で進められていく。麻薬王の邸宅の地下金庫には、二千五百万ドル分の金塊というお宝が眠っていた。しかし、プラスチック爆弾のトラップがあって誰も手が出せない。その秘密を知る麻薬王の手下だったヘススは、老い先が短いことを悟ったことで、その情報を餌に二人の悪党を手玉にとり、大金をせしめることを思いつく。
 しかし好事魔多し。悪辣さで上をいく臓器密売業者のハンスからは逆襲に遭い、犯罪組織を率いるドン・エルネストとの交渉も思うに任せない。やがて事態は彼の手に負えないものになっていく。屋敷の管理人だったことで巻き添えを食ったカリも、否応なしに悪党たちと渡り合っていかざるをえなくなる。
 ところで、邸宅の主というのは実在した麻薬王で、南米とアメリカを股にかけての麻薬ビジネスで巨額の富を築いたパブロ・エスコバルのことである。物語に登場こそしないが、彼の遺した金塊の争奪戦で、エスコバルは空虚な中心として君臨する。ハンスやエルネストら筋金入りの悪党ばかりか、おこぼれに与ろうとする輩までが、誘蛾灯に集まる害虫のように引き寄せられていくのだ。
 金塊に目が眩んだ男たちからは、人の悪意が底なしであることや、欲深さには限りがないことが生々しく伝わってくる。しかし、彼らもまた人間であることを読者にふと思い起こさせるユーモアのセンスは、作者の手練れの技だろう。
 難攻不落の地下金庫にも描かれた"慈悲の聖母像(カリダ・デル・コブレ)"は、いったい誰に微笑むのか? そして歪んだ悪意に晒されたカリの運命やいかに? 作者の三十年来のホームタウンであるマイアミを舞台に、若きヒロインの健気な生き方をも併せて描いた犯罪小説は、老獪かつ若々しい。

 (みつはし・あきら ミステリ評論家)

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