書評

2019年7月号掲載

“マジョリティ”の側から“差別”を描く

三国美千子『いかれころ』

齋藤直子

対象書籍名:『いかれころ』
対象著者:三国美千子
対象書籍ISBN:978-4-10-103661-8

 昨年、『新潮』十一月号が発売された直後、「部落問題とか障害者差別とか、結婚のときの差別のこととか書いてある小説がのってるで。新潮新人賞やで」と、人から手渡された。私は、被差別部落問題と家族社会学を専門とする社会学者で、特に結婚差別問題の研究をしているので、それは読まねばとすぐに読み始めそのまま最後まで一気に読んでしまった。その間、声に出して「これすごい! これすごい!」と連発していた。
 その後、いろいろな人の感想が聞きたくて、私の身近な研究者の方々にも読んでもらった。ほうぼうにお薦めしているうちに、第三十二回三島由紀夫賞の候補になり、そして受賞作となった。自分の「推し」が受賞したので、私まで嬉しかった。
 本作は、1980年代前半の南河内における地域社会や家族をめぐる物語である。主人公は四歳の少女・奈々子で、彼女の叔母の縁談を中心に物語が展開する。
 地域社会や家族が息苦しい、ここから出たいという人は少なくない。しかし、具体的にその理由を説明するのは案外難しい。この作品は、家族・親戚関係のなかでふいにあらわれる、ささやかだが嫌な気持ちのする会話を何層にも積み重ねて、そこにある「うっすらした黒い影」を描いている。小説のなかに、出て行きたいと願ってやまない世界が再構成されていると思った。
 ここにはいられないと言いながら、そこに居場所をみつけて留まる者がいる。たった四歳で、すっかりその世界の雰囲気に溶け込み、そこで権力を得る方法を熟知している子どもさえいる。一方、どうしても耐え切れずに出て行く者がいる。主人公の奈々子は、のちにこの世界を飛び出していくほうの子どもであった。「本所のおっちゃんが釣書持って来はったら、なこたん桜のきーになわかけてぶらさがったる」。幼い彼女にとって、その世界から抜け出す方法は自死すること以外になかった。
 奈々子は、日々の会話のなかで、大人たちが親戚の誰かを値踏みしたり貶めたりしているのをいつも聞いている。嫌味や否定的評価で相手を不快にさせることができるのは、基本的には力関係の上にある者だ。立場の弱い方は、それに対して一言でも切返すことができれば上出来である。
 日常会話のなかで繰り返し確認されるその力関係のもと、上から下へと差別の"常識"が伝達される。家や"嫁"という規範から外れた女性、婿養子、婚外子、精神障害者、被差別部落、社会運動や共産党といったものに対して、否定的評価が当然のように与えられる。
 子どもがそばにいても、大人は平気でそのようなことを言う。大人は子どもには分からないと思っているのだろうか。それともわざと聞かせて、"常識"を教え込もうとしているのか。いずれにせよ、幼い奈々子は大人たちの会話を"理解"していた。
 私は調査の折に、差別をめぐる認識を「いつ身につけたのか」と質問することがあるが、答えはたいてい「いつのまにか」である。その無意識のプロセスを描くのはとても難しいことだと思うが、この作品はそれに成功していると思う。なにか大きな差別事件について小説に描くよりも、日常における差別的な感覚を身につけるプロセスを描く方が難しいと思う。
"差別"を描く難しさは、他にも理由がある。"差別"のエピソードを描くとき、その印象だけが読み手に強く残ってしまうと"差別"の再生産になってしまう可能性がある。書き手は、差別を書き捨てるのではなく、それらを物語として回収していかなければならない。それはかなりの力量が必要であると思うし、差別を扱う作品が意外に少ないのはそこに理由があるのではないかと私は思っている。この小説は、そのような難題に果敢に挑戦していると感じた。
 この作品には、徹底的に悪い人間は出てこない。みんなが、"真面目にやってるんだ。なのに、なんで私ばっかり損しないとダメなのか"と思っている。それを南河内の言葉で表現したのが「いかれころ」なのだろう。誰かを貶めたり、比較して優位だと思うことで、自分を保とうとする。そのような"マジョリティ"の側から"差別"を描いた、素晴らしい作品だと思う。

 (さいとう・なおこ 社会学者/大阪市立大学特任准教授)

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