書評

2019年4月号掲載

ユーモアと修羅が交叉する物語

――篠田節子『肖像彫刻家』

牧眞司

対象書籍名:『肖像彫刻家』
対象著者:篠田節子
対象書籍ISBN:978-4-10-148422-8

 芸術の魔。この主題を扱った小説を、篠田節子はこれまでいくつも発表している。夭折の寸前に異彩を放つ逸品を描きあげた洋画家の謎をめぐる『神鳥(イビス)』、不世出のヴァイオリニストが残した録音が怪異を引きおこす『カノン』、脳に障害を負った女性が世界的チェロ演奏家すら凌駕する音楽の極致に到達する『ハルモニア』、聞く者の魂を揺さぶる有名ヴィオラ奏者の虚像に迫る『讃歌』、など。物語のたたずまいは作品ごとに異なるが、どの作品でも登場人物は「真なる美」「至高の域」を希求し、達成した者はそれと引きかえに現世的な破滅に至り、手が届かなかった者は絶望の淵で人生を失速させる。
 本書『肖像彫刻家』の主人公、高山正道(たかやままさみち)も、芸術の魔に身を焼かれたひとりだ。若いときは抽象彫刻に打ちこみ、権威ある美術展に入選した。そのアルミ作品は地元にモニュメントとして飾られたものの、結局、世間的な成功につながることはなかった。文句ひとつ言わずに家計を支えてくれた妻も、息子の成長を機に家を出ていった。そのため、正道は日銭を稼ぐのに汲々となり、肝腎の作品制作もできなくなる。彼はまったくのダメ人間ではないが、中途半端に才能があったせいで、人並みの安定や幸福を掴めない。芸術に真面目に取り組み、かなりのところまでいくが、センスの点で天才には決して及ばない。それを思い知ってしまう。
『肖像彫刻家』が芸術を扱ったこれまでの篠田作品と異なるのは、芸術で挫折した正道が日常的な地平で救われること、そして物語全体にユーモアが漂うことだ。正道は離婚後、四十を過ぎてからイタリアへ渡り、徒弟制度のもとで本格的なブロンズ像制作の技法を習得。帰国後は、肖像彫刻の職人として、山梨県の農村に仕事場を構える。とはいえ、胸像で最低百万円、全身像ともなれば一千万円ほどもする、ブロンズ像の注文などほとんど入ってこない。しかし、大家である菱川忠治(ひしかわちゅうじ)・喜子(よしこ)夫妻が野菜や惣菜を分けてくれるので、なんとか生活はしていける。この菱川夫妻が芸術にまったく興味がなく、それがかえって正道には楽だ。裸体像を制作したとき、のぞきにきた忠治は「芸術じゃ、しょうがあんめぇな」と、でへでへ笑う。正道もつきあってでへでへ笑ってしまう。このトホホな感じが、なんとも平和だ。
 こうした肩の力が抜けるやりとりがある一方で、その場の空気が燃えあがるようなシビアな場面が突如あらわれたりもする。篠田節子の苛烈描写は小手先ではなく、人間性の本源に根ざしていて、読む者をすくませる。たとえば、正道の姉、薫が母親の介護について語りだすくだり。その時期、イタリアにいた正道は、母がどんな状態だったかを知らない。薫は言う、「最後の方は毎日が地獄だったよ」。
「死と生」をめぐる問いかけは、この作品の底流をなすテーマであり、篠田節子はそれを決してきれいごとですませはしない。正道は、自分が看取ることもできなかった両親の像を制作し、懐かしい記憶などではなく、生々しい父と母の生きざまにいやおうなく直面する。また、地域の名刹からは、開祖である雪姫(ゆきひめ)像を写した分身を造る相談を受ける。仏寺は死者を弔い、生者に教えを説く場だが、経営の裏側は卑俗な利得にまみれており、正道は巻きぞえになってしまう。そして、日本におけるドイツ哲学の泰斗の像を手がけた際には、知の最高峰の隠された晩年の姿にふれることになる。
 一流芸術家への道を諦めた正道だが、はからずもまったく別な面で大きな評判を獲得することになる。彼が造った像は、動いたり喋ったりするというのだ。最初は半信半疑だった正道も、実際に像が語る声を聞いてしまう。この不思議な現象は、正道が身につけたローマンロストワックス法の精緻さが引きおこしているのか、彼自身にオカルティックな力があるのか、それとも人間心理が作りだした集団幻覚か。
 もちろん、これは篠田節子の作品だから、ファンタジイ的な方向へ引っ張るのでもなく、かといってすっきりした謎解きミステリの解決に逢着もしない。あくまで主眼は、怪異そのものではなく、それによってあぶりだされる人間模様にある。それは、ときに浅ましく、ときに優しい。そして、つねに哀しい。

 (まき・しんじ 文芸評論家)

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