書評

2018年12月号掲載

自分自身の〈かたち〉を知るために

――深沢潮『かけらのかたち』

倉本さおり

対象書籍名:『かけらのかたち』
対象著者:深沢潮
対象書籍ISBN:978-4-10-120372-0

「人間は万物の尺度である」。
 古代ギリシアの知識人・プロタゴラスが遺したとされるこの言葉、文脈を切り取ってひとり歩きすることも多いようだが、本来のニュアンスは言葉を補って説明したほうがずっとわかりやすい。
 すなわち「人間は(ひとりひとりが)万物の尺度である」。つまり、物事の基準は十人十色、人はそれぞれが別々の物差しを持って生きているということ。
 そうしたありようを心得て、互いが互いの物差しを尊重できればむやみにすり減ることもないのだけれど、実際の私たちが往々にして傷だらけになるのはご存じのとおり。そして、SNSという装置は、時にその痛みをよけいに尖らせてしまう。
 本書は、いかにも現代的なモチーフを意地悪な目線でふちどってみせた短篇集だ。年齢差がもたらすカップル間の軋轢。隙あらばカードを切り合う女子会の面妖さ。妊活をめぐるシビアな現実。立場も境遇もそれぞれに異なる人びとが――と、説明しかけて、読後の自分のなかにあった違和感に気づく。たしかに、既婚・未婚の違いにはじまり、子供の有無、職業の別に加え、年齢や収入や暮らし向きなど、ここに登場する六人の主人公たちはてんでバラバラのプロフィールを掲げている。ところが実際は、なぜか誰もが似通っているような印象を受けるのだ。
 たとえば、冒頭の「マドンナとガガ」の主人公・梨奈。惰性で付き合っていた同世代の恋人と別れ、二十も歳の離れたバツイチの男と結婚して収入面でも精神面でも安定を手に入れたはずが、夫の大学の仲間たちを家に招いた日をきっかけに、それまでは単なる記号でしかなかった〈元妻〉の存在を意識せざるをえなくなり、心をかき乱されていく。
 あるいは、「アドバンテージ フォー」の朱里。フリーのライターとしてバリバリ働き、メイクや服装にも気を配っている彼女は、非〈専業主婦〉であることに優越感を抱いている。ところが、プライドを賭けて臨んだ久しぶりの女子会からひと月後、思わぬ伏兵の反撃に遭い、なんともいえない敗北感を味わうことになる。
 他にも、夫の学生時代の集まりに夫婦連れ立って参加することに苦痛を覚える妻がいる。〈美魔女軍団〉を自負するママ友たちの輪のなかで無自覚に疲弊している母がいる。〈究極のイクメン〉と呼ばれたいがために仮想空間につながりを見出そうとする夫もいる。気づけば誰もが序列に汲々とし、勝ち負けにこだわっている。彼女たちに共通するのは「物差しの肥大化」だろう。
 それらをグロテスクに助長させるのが、フェイスブックという装置と、ひとりのアイコンの存在だ。梨奈の夫の健介や朱里が所属していた大学のテニスサークルでマドンナだった優子は、雑誌の〈美熟女コンテスト〉なる企画で特別賞をもらったこともあり、〈商社勤務〉の〈高収入〉の夫を持ちながら、〈駐在経験〉を活かして料理教室を開き、自分によく似た〈美人の娘〉もいる。要するに、わかりやすくタグだらけのプロフィールを持った人物なのだ。
 華やかなりしバブルの時代を謳歌し、ちやほやされることが常態化した優子にとって、他者の物差しは自分を輝かせるものでなければならない。だからこそ二十年以上経った今でもサークルの集まり――主に男たちが中心になって構成されるコミュニティに固執し、「教室」という不均衡な磁場のなかに――つまりは自らの物差しを絶対化できる空間に女たちを集めようとする。それは、外側に立つ人間にとっては単に痛々しいふるまいとしか映らないものだが、ほんのすこしでも内側に足を置く人間にとっては、充分に「呪い」として機能する。フェイスブックに鏤められた記号は、その境界線をたびたび拡張してしまう。登場人物たちが奇妙に似通って見えるのは、みな多少なりともその呪いに囚われているせいだ。
 だが、しつこい呪いも、最後に置かれた「マミィ」という一篇においてついに破られる時が来る。皮肉にも、それを成し遂げるのは優子自身の娘・安奈だ。親元を離れてアメリカへ留学中の彼女は、それまでの価値観が通用しない異国の地で、たどたどしくも自らの力を用いて――すなわち、自らの物差しを当てながら他者との関係性を築いていく。
〈あたしはあたしでいたい。あたしの友達も、あたしの恋人も、あたしの人生も、自分で決めたい〉。
 彼女が下すほろ苦い決断は、目の前にちらばる〈かけら〉たちを自分自身の〈かたち〉に昇華させるために欠くことのできないレッスンなのだ。

 (くらもと・さおり 書評家)

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