書評

2018年8月号掲載

人そのものと向き合う力

――五木寛之『七〇歳年下の君たちへ こころが挫けそうになった日に』

西尾慧吾

対象書籍名:『七〇歳年下の君たちへ こころが挫けそうになった日に』(新潮文庫改題『心が挫けそうになった日に』)
対象著者:五木寛之
対象書籍ISBN:978-4-10-114734-5

 初めて五木先生の講義を受けたとき、先生はずっと立ち続けていた。涼しい顔で座る学生と、我々を睥睨する先生――この対比が、両者の間に超克不能の溝があることを象徴していた。
 あの部屋を切り裂いていたのは対人力の差であった。朝鮮で終戦を迎え、ソ連軍の横暴を目撃し、日本では引揚者として差別される。そんな経験の中で人間の暗黒面を直視してきた先生の人生史を、温室育ちの若輩者が受け止められるはずもなかった。先生は『歎異抄』や『論語』のように聞き書きで生まれた古典を引き合いに、直接語られた言葉を虚心で受け止める重要性を説いた。そんな先生を前に、私は先生を"高名な作家"というレーベルを通してしか見ず、固有な体験の語り手として向き合う準備がなかった自分を恥じた。
 人に対峙するのは難しい。自分が善と信じる人にほど悪が潜んでおり、逆に社会的に疎んじられる人にほど善が隠れている。それにも拘わらず私は自分の価値判断の絶対性を崩すのが嫌で、人々の間に境界線をでっち上げてしまう。"善なる私たち"に根付く暗黒面から目を背け、悪印象に隠された善の価値を認めないのだ。ソ連兵に姦淫された女性を侮辱した婦人、そのアンチテーゼとしての誠実さを私欲の犠牲にしない池袋の売春婦。彼女らのことを述懐する先生の言葉からは、先生が人間の絶対悪を他人事として葬り去らず、自分に潜む暴力性の鏡像として内省的に受け止めるからこそ、決して安易な善悪二分に陥らないのだと実感した。
 二回目にお会いしたとき、先生の「他人の経験は語り継げない」との言葉に絶望した。先生の語りはどれも詳細な描写に満ち溢れていた。それを聞いているうちに、引揚者を差別する日本人の醜悪も、赤線地帯でも誠実さを捨てなかった女性の気丈さも、リアリティをもって眼前に立ち現れるように感じた。それなのに先生が「経験は語り継げない」という諦念を口にするのは耐えられなかった。先生の話にあれほどの現実味を感じていた自分の感性が全否定された気がしたのだ。
 大学に入り、沖縄戦体験者の声を記録する活動を始めた今、ようやく先生が言いたかったことが飲み込めた。他者の経験を完全に理解し語り継ぐことが出来ると錯覚していた私は、無意識的に自分が理解可能な人間の虚像を他者に押しつけていたのだと気づいたからだ。自分と全く違う道を歩んできた他者は本質的に理解不能だ。理解を拒絶する他者性を受容し、しかし人として共有出来る部分を探そうと悪戦苦闘しながら、その人の生き様のディテールを見つめることによってのみ、固有の尊厳を持つ主体としての他者に対峙することが出来るのだろう。振り返れば私たち灘校生の質問は概して抽象的・観念的でディテールを掘り起こす力を欠いていた。畢竟私たちの経験は独り善がりな幻影を積み上げた砂上の楼閣だからだろう。小説で人を描くことは「不可解なことへのチャレンジ」だと言った先生の言葉が、やっと今心に染み渡った。
 他者からの隔絶を直視するとき、「自分とは何か」「自分の現状は肯定されるのか」といった不安が常につきまとう。そんな時こそ具体的な対人関係が「特効薬」になるのだと先生は言う。救いようのない人間の悪も、ふとしたところに表出する愛すべき人間らしさも、全てをそのまま受容することで、人間としての自分を肯定できる。虚心坦懐に他者と対峙し、その生々しい営為を自分の血肉とする力――これが先生に教えられた対人力である。
 五木先生は作家という職業を特別扱いせず、「表現者」という言葉を好んで使う。この言葉に先生の対人観が凝縮されている。先生にとって全ての人が自分の人生の表現者なのであり、だからこそ先生は人の営みの些細なディテールにこだわるのだ。表現者に序列をつけない謙虚さと、表現という営みへの崇敬こそ、先生の対人力の源である。
 強いて作家としての役割を問うたとき、先生は「炭坑のカナリア」になることだと答えた。坑道で有毒ガスが発生するのをいち早く察知し人に知らせるカナリアのように、大衆が気づかぬ時代の趨勢や人間の本質を伝えるのが作家の役目だという。その仕事は毒の犠牲となる怖さも孕んでいるだろう。それでもなおカナリアでいようとする先生は、人から逃げない表現者としての強さを体現している。私も対人力を磨き、もう一度先生と膝を交えたい。その時まで先生がけたたましく鳴くカナリアでいて下さることを切に願っている。

 (にしお・けいご 灘校OB)

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