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書評・エッセイ

幸福な悲しみ

――ジョゼ・ルイス・ペイショット『ガルヴェイアスの犬』(新潮クレスト・ブックス)

滝口悠生

 一九八四年一月のある夜、ポルトガルの小さな村ガルヴェイアスが猛烈な爆音に襲われる。村人たちを恐怖に陥れたこの爆発音は、間もなく村のはずれの原っぱに墜ちて巨大な穴をつくった物体によるものだったことがわかる。村人たちによってその穴のまんなかに見つけられたものは「名のない物」と呼ばれるが、この物体については物語のおしまいまで、そのトートロジカルな呼び名以外、色も、形も、大きさも、明らかにはならない。
 物語は、村人たちの目には明らかに映っているはずの「名のない物」ではなく、その謎の物体の到来以降、何かが狂ってしまった村の人々、そして犬たちの方を見ている。
 作中で経過する時間は、「名のない物」の到来にはじまるおよそ十か月に過ぎない。それは村の者たちの人生のごく一部だが、彼らのあいだをわたり歩くように語られるこの物語を読み進めるのは、もっとずっと長い時間の旅のように感じる。
 語りはたしかに村の者たちの方を見ているが、そこで中心に立つ者は誰もおらず、鳥瞰されるだけの人々の名前や関係性は一読ではなかなか覚えきれないだろう。読み手は、村の地図をたどるように、彼らひとりひとりと順番に付き合わなくてはならない。そこにある時間は単に人数×十か月ではないのだ。ある人のもとに起こったある出来事を語ろうとすれば、必ずその人がそれまで過ごした時間も一緒についてくる。つまり結局それは彼らの人生についての話なのであり、これはいくつもの人生の物語なのだとも言える。
 概観すれば煩雑でまわりくどいとしか言いようのないこの語り口は、しかしちゃんと付き合えば付き合っただけよろこびを与えてくれる。このよろこびはいったいなにゆえだろうかと思う。というのも、語られるエピソードはどれも悲劇的なものばかりなのだ。
 老夫は兄を殺す決意をし、女は夫の浮気相手に"爆弾"を投げつける。貧しい少女が男に手込めにされ、犬が毒を盛られて死ぬ。神父はアル中で、娼婦は銃で誤射される。不慮の事故、濡れ衣......不幸は後を絶たない。そして謎の物体の落下以降、村のパンはひどくまずくなった。
 大勢の登場人物が、みな何かしらの不幸に見舞われている。戦争中に友人と家族を失った村の郵便配達夫は「運命には良心なんてものはない。ただ非情なだけだ」と悟る。実際、救いのない絶望的な話ばかりで、この彼もまた、別の人物に非情な言葉を投げつけて恨みを買ったりしている。
 重要なことは、彼らの人生の悲しみを語るこの物語の語り手は、彼ら自身ではないということだ。村の者たちは決して雄弁ではなく口下手で、声を発するよりもむしろ、自分の人生や、自分の悲しみに、どんな言葉が与えられうるのか、その言葉を聴こうと耳をすませている。
 そして、まるで「名のない物」のように姿の見えないこの物語の語り手もまた、村の者たち(犬も含む)に寄り添って、一緒に耳をすませている。語り手は、語るより前に、聞き手なのだ。そうして、声にならなかった声、言葉にならなかった声が、姿の見えない語り手のもとで語られる。悲しみに希望が宿るとするならば、言葉にならなかった声に、言葉が与えられるその瞬間においてなのではないか。
 そして読み手である私たちも、読みながら一緒に耳をすますことができる。彼らの抱くものが憎悪で、彼らを襲うものが悲劇であっても、それが思い出され、語られる時、その声に帯びる希望を見つけることができる。
 村からブラジルにわたって娼婦になったファティマは、そのままブラジルで生涯を終える。生前、誇らしげに故郷について語っていた彼女の姿を、遺体を村に送り届け、結局この村に娼婦として居ついたイザベラが思い出す。その姿は、「幸福な悲しみに酔いしれているように見えた」。
 幸福な悲しみ、という背反的な表現を、私たちは私たちの人生の現実として知っている。ひとつの声に、ふたつの感情を聞きとること。それは他者の声を聞くこと、あるいは過去を思い出すことに、分かちがたく付随するのかもしれない。悲哀は幸福を呼び、幸福は悲哀を呼ぶ。いずれにしろ悲しい、とも言えるが、完全な絶望はない、とも言える。慎ましく真摯な語り手のおかげで、読み手もまたそこに希望を聞きとることができる。この物語によってもたらされるよろこびとは、きっとそういうものだ。

 (たきぐち・ゆうしょう 作家)

ジョゼ・ルイス・ペイショット著/木下眞穂訳『ガルヴェイアスの犬』(新潮クレスト・ブックス)978-4-10-590149-3