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書評・エッセイ

『誰がために鐘は鳴る』、もう一つの面白さ

――ヘミングウェイ『誰がために鐘は鳴る』上・下(新潮文庫)

高見浩

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 ヘミングウェイに親しんでいると、印象的な女性像に出会うことがすくなくない。たとえば、初期の秀作の一つ、「雨のなかの猫」(一九二四)。
 イタリアの、ある海辺の景勝地のホテルの一室で、若いアメリカ人の夫婦が会話を交わしている。若い妻は窓際に立って、雨に濡れている子猫に気づき、可哀そうだから拾ってくる、と言う。結局猫は見つからず、手ぶらでもどってきた妻に対し、もういい加減にして本でも読めよ、と夫は冷たく突き放す。それを聞いて、若い妻は憑かれたように口走るのだ――「猫がほしい。いますぐに猫がほしい。髪をのばして楽しめないなら、せめて猫を飼ったっていいじゃない」
 それだけの話なのだが、この猫を、いまは夫の反対で彼女が産みたくても産めない子供の表象ととらえると、夫婦が現在直面している微妙な危機、その中で若い妻が感じている焦燥と孤独が仄かに浮かび上がってくる。特徴的なのは、ヘミングウェイが終始若い妻のほうの心理に寄り添って描写を進めている点なのである。
 やはり男女の関係の機微を描いて忘れがたい「白い象のような山並み」(一九二七)になると、女性の立ち位置がもっと明確に描かれている。
 スペインの寒村の鉄道駅で、マドリード行きの列車を待ちながらアメリカ人のカップルが語り合っている。周囲の荒涼とした自然が二人の索漠とした心象風景と重なっている。ここでの話題はもっとはっきりしていて、男は女にしきりと堕胎を勧めているのだ。すごく簡単なんだから、すぐすむんだから、と手術を勧める男の口説きを、最初は適当にいなしていた女も、しだいに苛立ってくる。そしてとうとうこう言い放つのである――「どうかおねがい、おねがい、おねがい、おねがい、おねがい、おねがいだから、黙ってくれない?」
 マッチョのヘミングウェイ、という一面的なイメージとは裏腹に、彼は女性の心理と生理にも終始関心を抱き、その描写に腐心していた。それは男にノーを突きつけて女の恋人のもとに奔るレズの女性を肯定的に描いたもう一つの秀作「海の変化」(一九三一)などでも顕らかである。ヘミングウェイは女を描いても読ませるのだ。それはこんど新訳を手掛けた彼の畢生の大作『誰がために鐘は鳴る』でも存分に証明されている。
 一九三六年七月、フランコ将軍の率いる右派将軍たちの反乱をきっかけにスペイン内戦が勃発。翌年三月、マドリードに飛んだヘミングウェイは、それ以降四たび愛するスペインに渡り、内戦の終結まで共和派支援の立場から戦況の報道に献身した。その体験をベースに書き下ろされたのが『誰がために鐘は鳴る』(一九四〇)である。物語はある密命を帯びて共和派のゲリラ基地に潜入した青年、ロバート・ジョーダンの決死の行動を軸に展開する。それは青年の全知全能を傾けた、一種実存的な冒険の物語であると同時に、極限状況下で彼が自己の限界を乗り越えてゆく物語でもある。
 そして、ここでも一人、実に印象的な女性が登場する。ジョーダンが加わるゲリラ隊のメンバーの一人、ジプシーの血を引くピラールがそれである。若者も多いゲリラの面々を束ねる、いわば"肝っ玉母さん"とでもいうべきこの中年の女性を、ヘミングウェイは数々の興味深いエピソードを通して情感豊かに描いている。彼女が共和派の農民たちによるファシストの地主やカトリックの司祭の虐殺を語るとき、かつての恋人である闘牛士との濡れ場を語るとき、あるいは死の臭いを嗅ぎとれる自分の異能ぶりを語るとき、それはつくりものではない、生々しい実感を伴って読者に迫ってくる。ヘミングウェイの全著作を通じて、これほど肉付き豊かな存在感を漂わせる女性にはお目にかかったことがない、と言ってもいいくらいだ。ヘミングウェイ自身の面影を濃厚に宿すジョーダンをはじめ、この作品の主な登場人物にはだいたい実在のモデルが存在するのだが、ピラールのモデルとおぼしい女性は見当たらない。とすると、彼女は純粋にヘミングウェイのシャープな想像力と感性と観察力の産物なのだろう。
 豪放磊落な"パパ・ヘミングウェイ"の神話に目がくらむと、彼の中に終始息づいていた、女性的とすら呼んでもいい繊細な感性を見逃してしまいかねない。『誰がために鐘は鳴る』は、そのことをもあらためて教えてくれる作品である。

 (たかみ・ひろし 翻訳家)

ヘミングウェイ著/高見浩訳『誰がために鐘は鳴る』上・下(新潮文庫)978-4-10-210016-5,17-2