書評

2018年3月号掲載

『百年泥』芥川賞受賞記念特集

静かに奏でられる「母を恋うる歌」

――石井遊佳『百年泥』

豊崎由美

対象書籍名:『百年泥』
対象著者:石井遊佳
対象書籍ISBN:978-4-10-102171-3

 第一五八回芥川賞受賞作、石井遊佳『百年泥』の舞台はインドのチェンナイ。金にだらしない彼氏のせいで多重債務者になり、その返済のため、かの地の優良IT企業で社員に日本語を教える仕事に就いた〈私〉が語り手の一人称小説だ。着任三か月半にして百年に一度の大洪水によってアダイヤール川が氾濫。住んでいるアパートと川をはさんで対岸にある会社に行くために、水が引いた後の橋を渡る――その数十分間が、この小説に流れる現在進行形の時間になっている。
 スクーターに乗る際、大気汚染から呼吸器官を守るため、スカーフで頭部をぐるぐる巻きにした上にサングラスをかけるので、見た目が月光仮面と化す女性たち。ラッシュ時の交通機関の混乱を避けるため、翼を着用して空を飛ぶエグゼクティブら。百年泥の一種独特な悪臭に導かれてか、それまで理解できなかったタミル語を聞き取れるようになる〈私〉。大阪市と友好都市提携を結んだために、ガネーシャ像と交換した大量の招き猫があちこちに鎮座することになったチェンナイ市。
 そうした虚実混淆のエピソードばかりか、洪水が引いた後の泥の中からは、七年間も行方不明だった五歳児が現れて母親に叱られたり、まだ若い青年がすでに老人になっている親友らに引っぱり出されたりするものだから、この小説はインド版マジックリアリズムという評価を受けているのだが、美点はそこだけに終わらない。
〈私〉は人混みの中、日本語クラスで一番優秀かつもっとも扱いにくい生徒であるデーヴァラージと遭遇する。交通違反をしたため、橋の上の清掃という労役を科されたデーヴァラージによって掻き出されるゴミの中から、〈私〉もまた、自分の過去にまつわる物を見つけることになる。元夫との別れのいきさつを象徴する〈サントリー山崎12年〉。極端に無口だった母を思い出すきっかけとなる〈小さな、古ぼけたガラスケースのようなもの〉。そこに共通するのは、泥や土や砂を踏みしめてつける足あとだ。
 洪水三日目、水が引くや否や、〈私〉はアパートの階段をいっさんに駆け下りて、地面を踏む感触を味わう。結婚して半年もたたないのに浮気をした元夫の行状を知る直前、〈私〉はいい年をした大人なのに、〈ちょうど雨上がりの美しい午前中、駅前の西友と隣のパチンコ屋との間にしっとりととても具合のいい土があるのを通りがかりに目にし、しんぼうたまらずそこに入りこみ足あとをつけて遊んでいる〉。中学三年生の時の遠足で、自分の母親同様口をきかない級友と浜辺で足あとをつければ〈こころがあかるむのを感じた〉。
 なぜか。それは、義母に育てられ、口をきかないことを責め立てられた少女時代の母親の経験に根ざしている。自分を可愛がってくれた、近所のアパートでひとり暮らしをしているおばあさん。そのおばあさんが誕生日プレゼントで買ってくれた新品の運動靴をはいて、一緒に散歩した砂浜。〈心の踊りはねるそのままおばあさんと手をつないで砂浜へ行き、うれしく砂をふむと、新しい靴は足あともくっきり新しい。世界はただ受け、おしみなくへんじする〉。そんな、母親の唯一といっていい幸福体験ゆえに、娘である〈私〉もまた、泥や土や砂の上に足あとを残す行為を愛するのだ。
〈私にとってはるかにだいじなのは話されなかったことばであり、あったかもしれないことばの方だ。この世界に生れ落ちてから、ついに《なぜ》が私を見つけだす以前の、二度ともどらない母との無音の時間の方だ〉
 泥の中から最後に現れる、大阪万博のメモリアルコインにまつわるデーヴァラージの物語もまた、幼い頃に失った母に関する物語であることからしても、この小説の一番奥で静かに奏でられているのは「母を恋うる歌」なのである。愛おしさと悲しみで胸がいっぱいになる旋律の合間には、インドあるあるネタや日本語教室での面白エピソードによって、笑いという賑やかな手拍子が打ち鳴らされる。そのバランスの良さも美点のひとつ。素晴らしい声を持った新人の登場を言祝ぎたい。

 (とよざき・ゆみ 書評家)

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