書評

2017年11月号掲載

言葉にならないものの豊かさ

――松家仁之『光の犬』

養老孟司

対象書籍名:『光の犬』
対象著者:松家仁之
対象書籍ISBN:978-4-10-332813-1

 久しぶりに小説を読んだ。途中で投げ出したら困るなあ。書評を引き受けてから、そう思った。ところがなんと、そのまま読み続けて、とうとう一気に読了してしまった。
 なぜそうなったか。よくわからない。途中で感動して、涙が出そうになった。私はもう八十歳になるから、テレビで水戸黄門を見たって、うっかりすると泣き出す。要するに脳動脈硬化じゃないかと思うが、その説明だけでは、自分でも納得がいかない。なぜなら、意図してわかりやすく、感動的に作った話というわけでもないからである。淡々とした家族三代の物語に過ぎない。
 それを読んで、なぜ感動するのか。いい年をしているのに、自分とはわからないものですなあ。自分でもよくわからないんだから、他人が感動するかどうか、そんなことまでわかるわけがない。テレビを見ていたら、カズオ・イシグロのノーベル賞受賞が報じられていた。そういえば、この人の作品を読むときの気分に似ている。地味な話を、なにかボソボソ呟いている。それだけのことである。
 舞台は北海道の田舎町。家内の実家がまさにそうで、家内の弟が名寄で実家を継いでいる。家内の家族の話だと思っても、感覚的に不思議はない。雰囲気がそのまま通じてしまう。ただしこの物語には北海道犬が登場する。家内の実家に犬はいない。
 犬が中心かというと、そういうわけでもない。だから表題の意味は、最後に近い部分まで読まないとわからない。読んでもわからないかもしれない。主人公の一人である「歩」はまだ幼く、言葉も発しない。その幼児の視界にあるものとして、光に包まれた犬たちが描かれる。言葉がない幼児の視界の中だから、もともと言葉にならない。だからわかるかというと、よくわからない。わからないままだが、まあそれでいい。北海道で暮らしてきた家族の話に、北海道で長年暮らしてきた犬の話が付く。それで当然という気がする。
 小説はロマンで、現代社会はロマンをバカにする。クール・ジャパンとか言う。なにがクールだ。もともと感動することもできない人間に、クールもクソもあるか。そう悪態をつきたくなる。
「教会になぜ音楽があるのか。ことばだけでは追いつくことができないものがあるからだ。一惟(いちい)は神学部にくる前から、そう考えていた。人間が絵を描くことも、ことばにならないものをかたちに仮託している。ことばは不自由だ。」
 一惟は主人公の一人の名前である。音楽も絵も、まさに言葉にならないから、存在している。じゃあ、小説とはなにか。書かれている部分は当然だが、さらに言外を想起させるものである。言葉で書いていくけれども、そこに直接には言葉にならないものが表れてくる。その部分が豊かであるほど、優れた作品になる。メタ・メッセージといってもいい。日本語で雰囲気とか空気とかいう。私はそれをバカにしない。言葉が人を動かすのは、じつはメタ・メッセージのせいである。自分で理屈を言うから、そこはよく知っている。要するに理屈はつまらないものである。理屈は後付け、ほとんど言い訳に過ぎない。
 読み続けるうちに、北海道が浮かんでくる。自然と人生が独特の調和を保つ。犬が登場するのも、それである。うまく表現されているなあ。どこがというのではない。ちょうど札幌から戻ったばかり、冬に外に出たらすぐにわかる。いくら部屋の温度を調節しても、外はやたらに寒い。東京のオフィスやマンションとは違って、そこでは自然を消すことができない。
 高校生のときに、はじめて大雪山に行った。北大に行きたかったが、母親に断られた。家内もそうだが、意図したわけではないのに、北海道出身の知人が多い。親しくなって、聞いてみると、北海道だとわかることがある。歌なら中島みゆき。べつにふられる歌がいいというのではない。メロディーが美しい。
 政治家は地域振興を言う。そんなことを言わなくても、地域はそれとして存在している。それを上手に書いてくれたなあ。北海道の贔屓としては、それが嬉しい。そういえば、来月は小樽、ここには毎年行く。

 (ようろう・たけし 解剖学者)

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