書評

2017年9月号掲載

時代を超えた祈りの原像

――中西裕人『孤高の祈り ギリシャ正教の聖山アトス』

野町和嘉

対象書籍名:『孤高の祈り ギリシャ正教の聖山アトス』
対象著者:中西裕人
対象書籍ISBN:978-4-10-351181-6

 アトス。ギリシャ正教最高の聖地にして、エーゲ海に突き出たアトス半島を占有する、世界唯一の修道院自治国家である。厳しい戒律のもと、これまでごく断片的にしか紹介されてこなかったこのアトスに、ひとりの若手写真家が、「祈り」とは、「信仰」とは、といった深い自問を引きずりながら信徒となって繰り返し通った。そして修道士たちの、信仰に裏打ちされ滲み出た人間性に強く惹かれ、心開かれて、祈りの空間に踏み入ってゆく心の軌跡を写真と文章で綴ったドキュメンタリーである。
 宗教的な空気が極めて希薄な東京という環境に埋没しながら、雑誌や広告の写真を生業として暮らしてきたひとりの写真家が、アトスという異次元の宗教世界と遭遇し、あたかも吸い取り紙がインクを吸収するかのように溶け入ってゆく。
 もちろん実の父親が20年来アトスに通い続けてきた、研究者にして、ギリシャ正教の司祭職であるという稀有の環境でなかったとしたら、出会うこともなかっただろうし、その導きがあって初めて成就できた取材行なのであるが、作者の信仰と向き合う新鮮な感受性と好奇心が行間から滲み出ていて快い。さらに、それまで特別な関心も抱かず、なんとなく傍観してきた父親の、宗教者としての実像をアトスに来て初めて知るところとなり、畏敬の眼差しとともに祈りの姿にカメラを向けるようになっていく。
 じつは筆者もまた、東方正教会の祈りを近いところで見てきた。ギリシャ正教同様、降誕祭が1月7日に催され、中世さながらにおびただしい数の裸足の巡礼者たちが集う、エチオピア正教の聖地ラリベラでの祈りを何年にもわたって撮影してきた。また今から40年前には、ギリシャ正教のなかでも極めて重要な、シナイ山麓にある世界最古の修道院、聖カテリーナ修道院に宿泊を許されイコンと祈りを撮影させてもらったことがある。イタリアの出版社から依頼の仕事で、ヴァチカン経由のルートでコンタクトしてもらい実現した。神が燃える柴の中からモーセに初めて語りかけたと伝えられるその場所に建てられた由緒ある修道院であり、一神教の源流ともいえる聖地である。城壁に囲まれた砦のような修道院の一室から、暮色に包まれた峻厳なシナイ山を仰ぎ見ながら、神の声を聞こうと願う修道士にとって、シナイに勝る修道の地はないであろうことを悟らされたことだった。
 それにしても、『孤高の祈り』に収録された、ほぼローソクの光だけで浮き彫りにされた聖堂内での祈りの姿の、なんと重厚で美しいことか。カトリックのミサの情景は、私自身も撮影してきたし、テレビなどでもしばしば見ているが、この写真集に収録されている修道士たちの姿は、時代を超えた祈りの原像を目の当たりにしている思いにさせられる。

 ――ここは現実世界なのか、未来なのか、過去なのか、はたまた地球上ではなく宇宙なのか、楽園なのか――

 と、初めて参加した徹夜の祈りで言葉を失った写真家は、そのときの感動と当惑をこのように記述している。
 一方、これらの完璧なまでに昇華された写真は、最新の高性能デジタルカメラによって初めて捉えられるようになった映像でもあるのだ。40年前に聖カテリーナ修道院で同じような祈りのシーンに遭遇してはいたが、当時のフイルムカメラでは写しきれる条件ではなかった。
 作者も言及しているように、このアトスは、自身を映し眺めるまたとない鏡であって、生涯関わってゆくライフワークとなるであろう。歴代の修道士たちが、神を模索しながら幾層にも重ねていった祈りの気配、イコンの数々、そして現役修道士たちの心の深層、そして自身の死生観について、写真家は、深く向き合ってゆくことになるのであろう。
 私事であるが、つい昨年秋のこと、アトスと並ぶもう一つの世界遺産、ギリシャ北部山岳にある修道院群、メテオラを訪ねた。アトスのような入域規制はなく風光明媚なため観光客が増えたことで、俗化を嫌った修道士の何人かがアトスに移っていった、という話を耳にした。

 (のまち・かずよし 写真家)

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