書評

2017年6月号掲載

新潮選書フェア新刊 書評

歴史と小説を同時に読み直す飛躍力

石原千秋『漱石と日本の近代』(上・下)

小森陽一

対象書籍名:『漱石と日本の近代』(上・下)
対象著者:石原千秋
対象書籍ISBN:978-4-10-603805-1/978-4-10-603806-8

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「近代が終わろうとしている。近代文学も終わろうとしている。漱石文学も終わろうとしている」という、衝撃的な宣言から始まる本書は、選書としては異例の上下二巻本である。それは漱石夏目金之助の主要な小説十二篇を、周到かつ一気に読み切らせる筆力で論じているからだ。
 しかし上巻と下巻の分け方に、漱石愛読者は異和感を覚えることになる。なぜなら下巻が『門』から始まっているからだ。これまでの漱石研究の常識で言えば、『門』は『三四郎』『それから』と共に、前期三部作として分類されて来た。短篇を連ねて長篇とする後期三部作『彼岸過迄』『行人』『心』と一線を画すのは、その間に「修善寺の大患」という生死の境の体験もあり、漱石の創作方法と思想上の転換があったとされて来た。
 著者は「『門』以降の小説が家庭を書いている」として、あえて後期に位置づける。そして「家庭小説が大流行」した「明治三〇年代」に対して、「明治四〇年からはじまる「朝日新聞:連載の漱石文学が当時「新しい」と感じられていた」のは「ポスト=家庭小説」、「家庭が女によって壊される物語だった」からだと言い切るのだ。
「スウヰート、ホーム」という英語の翻訳語であることを忘れて日常語として使い、その崩壊が日々明らかになる「家庭」という漢字二字熟語が、日本近代文学史の忘れ去られたジャンルとしての「家庭小説」に飛び、それを解体して構築されたのが、「家庭が女によって壊される物語」という、漱石小説のまったく新しい意味づけに飛翔する。この三段飛びが本書の最大の魅力である。
 漱石の同時代読者の思考と感情の動き方を、新聞雑誌はもとより、双六のような印刷媒体までを、著者が徹底して精査した成果が本書には結実している。漱石が新聞小説家であり、その読者がかつて読み、そして小説と同時進行で読む小説欄以外の現実のニュース記事を、巧みにフィクションとしての物語に織り込んでいった特質を踏まえながらの分析が、この三段飛びを可能にしている。
「家庭」は、古くから漢字文化圏において、家の庭、すなわち家族の生活している空間やその様態を表す言葉として使われて来た。漱石の小説が発表された時代の中で、長い歴史を持つ言葉に、どのような特別な意味が付与されていたのかが、十二篇の小説それぞれのキー・ワードに即して分析されていく。
 漱石の小説が発表された時代を、「明治民法に規定された遺産相続」の時代と位置づけているところに、十二篇を貫く、人間関係の分析の著者独自の視点がある。すなわち「漱石文学は家族小説=明治民法小説」であるという認識が、漱石の小説における金銭の授受という茶飯事を、「近代」をめぐる世界史と日本史の火花散る交戦点として本書は描き出していく。
 私たちがいつの間にか自明化してしまっていた「近代」の二文字が、思考と感情の枠組を根底からゆるがす装置として蠢き始める。

 (こもり・よういち 東京大学教授)

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