書評

2017年6月号掲載

「ここではなく、別の場所へ!」

――金井美恵子『カストロの尻』

野崎歓

対象書籍名:『カストロの尻』
対象著者:金井美恵子
対象書籍ISBN:978-4-10-305005-6

「金井美恵子」が日本の現代文学にとって特別な名前であることはだれもが認めるだろう。しかしそれが特別であるゆえんは十分に理解されているだろうか? 彼女の小説は知的で難解で、ちょっと敷居が高いと思い込んでいる読者がひょっとしたらいまだに存在するかもしれない。『目白雑録』シリーズに代表される痛快にして愉快なエッセイの数々もよく知られるところだが、その歯に衣着せぬ率直な語り口に恐れをなす向きもあるのではないか。
 しかし金井作品とは実のところ、とにかく甘美で、みずみずしい味わいや香りにあふれ、ときめきに満ちたものである。彼女の本を素直に読むなら、そのことはたちまち胸に沁みて納得できる。われわれは何も身構えることなく、言葉に身をゆだねることの幸福に浸り切ればいいのである。
 この新刊はまさにそうした金井ワールドの楽しみを凝縮した、そしてこれから金井作品を読んでみたいと思っている新しい読者にとって絶好の入門編ともなるような、理想的一冊を形作っている。まず冒頭の一編「『この人を見よ』あるいは、ボヴァリー夫人も私だ/破船」に目を見張る。タイトルにある「/」がまさに幻惑的な仕掛けになっており、エッセイストとしての作者が、小説家としての作者へと、スラッシュをはさんで鮮やかに変身してみせるのだ。他方、巻末に置かれているのは、森鴎外とその娘・茉莉をめぐる驚きのエピソードを紹介し、かつまた藤枝静男が昭和天皇に物申した鮮烈な一文を引用する刺激的なエッセイ、「小さな女の子のいっぱいになった膀胱について」(すごいタイトル!)である。つまり両端に随筆的なテクストを配したうえで、ロマネスクな密度の高い短編が、ゆるやかに主題を連続させながら十編、煌めきを放って並んでいる。何とも豪華で楽しみに満ちた構成なのである。
 それら十編の核心には、これまでの作品でもおなじみの「少女」の記憶がある。まだ映画館にただで入れてもらえるくらい小柄でいとけない女の子の心身に刻まれる印象の数々が、精細に描かれていく。金井美恵子の文体にかんして、描写の微視的な克明さ、とりわけ服飾のディテールの細かさがよく指摘される。たいていの男たちには「まるで見えない」細部の放つ輝きをつぶさにとらえる手腕が、彼女の文章を無二のものにしていることは確かだ。しかしそれ以上に、そうしたきめ細かな表現が、子ども時代ならではの不可思議に満ちた感覚と連動しているところにたまらない面白さがある。いきいきとまわりのものをとらえる観察眼をもちながら、女児には大人たちの事情はろくにつかめていない。だからこそ、「可愛いおチビさん」の視野に浮かぶ情景のいちいちが、「夢の工場」から出てきたかのような不思議な魅惑を及ぼしてくる。
 要するに金井美恵子とは、いまだ知性がいくらかまどろんでいる子どもにのみ開かれた楽園、大人には禁じられた秘密の楽園に、いつでも立ち返ることのできる作家なのである。その意味で『失われた時を求めて』のプルーストこそは彼女の先達にして同志だろう(本書でも何度か引用されている)。しかもこの作品では、少女と同時に大人の男の感覚や情念もまたみごとに描き出されていて舌を巻いてしまった。表題作に登場するのは、スタンダールの「カストロの尼」を「尻」と覚え違えているような可笑しな中年男である。だが、この柄にもなく情熱恋愛に身を捧げる「衣料問屋の番頭」こそは、あまりに頓狂な錯誤の数々によって、これまで金井作品に登場したもっとも感動的な男の一人となっているのだ。
 コラージュ作家・岡上淑子(おかのうえとしこ)の作品とのコラボレーションが素晴らしい力を発揮していることも付け加えておきたい。幻惑的なコラージュの数々が、「ここではなく、別の場所へ!」という小説家の精神とみごとに響きあって、この本の魅惑をひときわ高めている。

 (のざき・かん 仏文学者・東京大学教授)

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