書評

2017年2月号掲載

私語りの巧みな詐術

――高橋弘希『スイミングスクール』

木村朗子

対象書籍名:『スイミングスクール』
対象著者:高橋弘希
対象書籍ISBN:978-4-10-337073-4

『指の骨』『朝顔の日』に続く、高橋弘希三冊目の小説集には、「スイミングスクール」と第一五五回芥川龍之介賞候補作「短冊流し」の二編の中短編小説が収められている。
「短冊流し」は離婚に向けての別居中で、五歳の長女と暮らしている男が語り手。突如、娘が脳症で昏睡状態になり、なすすべもなく見守る父の物語だ。ここには脇役的にしか現れないものの、夫の不貞をきっかけに、娘を父親のもとに置いて去った母親の姿がある。二人の姉妹のうちの、まだ赤ん坊の次女のほうを母が選び取ったことを、のちにこの長女はどのように思うのだろう。ここに可能性として潜在していた母と娘の物語が、表題作「スイミングスクール」でまたべつのかたちで展開する。
 語り手は、小学生の娘を持つ早苗だ。時系列を乱しながら、ですます体で語られる物語は、多くのことが空白のままに残され、この語り手が真実をはぐらかしているかのような効果をあげている。冒頭、水たまりをのぞき込む娘のひなたの姿が早苗の目線から描き出される。ひなたはいたってかわいらしい九歳の女の子だが、その子を見つめる母のまなざしはどこか他人行儀である。ひなたがスイミングスクールに通うようになって、自分も子ども時代にスイミングをやっていたことから、早苗は母子家庭で育った自らの子ども時代を回想するようになる。早苗の両親は物心つく前に離婚しており父親との接触はなかった。早苗は母親にいつ叱られるかとびくびくしているような子で、母娘関係はどことなく不穏だ。早苗の母親は語りの時点ではすでに他界しているのだが、死因も実に不可解である。自宅から二キロも離れた側溝に倒れ込み、大雨でかさ増した水のなかで溺れていたというのだ。なぜ母親はそんなところへ行ったのか。そもそもその一年前に転倒して頭を縫うケガをしたのはどういうわけだったのか。問いの核心を回避しながら、娘が母を遠ざけてきたわけが朧げにみえてくる。高校三年の夏、進路をめぐって口論になったときに母親が言った言葉だ。「私だって本当は、あんたのこと堕ろすつもりだったのよ」。呪詛のような母の言葉は底知れぬ恐怖とともにびったりと早苗に張り付いているのだろう。だから生後三カ月を過ぎてもひなたを母親に見せに行こうとしなかった。母親がひなたに人差し指を差し出し、赤子の小さな手にぎゅっと握られて見つめ合う姿を、早苗は「一瞬、母の瞳には、怯えのような陰りが過ぎりました」と語り、そして思い直したかのように「赤子に怯える大人などいないので、陽光の加減で、瞳に、陰が落ちて見えただけだと思います」と言い添えている。
 父親に捨てられただけでなく母親も自分の誕生を喜んではいなかったという宣言は、早苗自身の娘への感情にも連鎖する。二歳を過ぎた頃、ひなたが夜驚症となって急に夜中に泣き叫ぶようになった。不眠にさらされ、なだめてもすかしても泣き止まない赤子とマンションの一室に閉じ込められて、消耗しきった早苗の口をついて出て来たことばは「ざまぁみろ」だった。おまえは、泣いても誰にも助けられずに見捨てられるんだぞ、という意味だ。
 母親が亡くなったあと、家を取り壊して土地を売る話がでてきて、早苗はしばらくぶりに実家に帰ってみる。アルバムの一つでも持ち帰ろうと、押し入れの襖を開けたが、中はまったくのからっぽだった。彼女の持ち物は母親の手によって何の相談もなくすべて処分されていたのだった。彼女が唯一持ち出し得たのは一本のカセットテープだった。そこには、父親に送るために吹き込まれた幼い早苗と母親の声が入っていた。
 幸せそうな親子の会話を再生してみても、早苗の心が晴れることはない。それなのに早苗が母娘の不和をあくまで「仲直り」の可能性を含ませた「喧嘩」と表現しているのが痛ましい。小説に穿たれた空白は母の愛の不在を否認しつづける語りの戦略なのだ。人並みに幸せに見える家族の底にひたひたと流れる冷たい水が不気味にかつ見事に描き出されている。

 (きむら・さえこ 日本文学研究)

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