書評

2016年12月号掲載

今月の新潮文庫

『真田太平記』の前に書かれた“続編”

池波正太郎『獅子』

重金敦之

対象書籍名:『獅子』(新潮文庫)
対象著者:池波正太郎
対象書籍ISBN:978-4-10-115689-7

 フランス料理やイタリア料理には食後酒の習慣がある。胃を刺激し、消化を助けるためでアルコール度数の強いブランディーやカクテルが多い。「酔った記憶がない」というほどの酒豪だった池波正太郎さんはデザートの後に葉巻をくゆらせ、カルバドス(シードルの蒸留酒)を飲んでいたものだ。
 池波さんの大作『真田太平記』(新潮文庫)は一九七四年から八年の長きにわたって「週刊朝日」に連載されたが、最終回は真田信之が松代へ転封され、領民たちの別れを惜しむ声を受けて上田から歩を進めるところで終わる。天下を分ける戦となった「関ヶ原の戦い」では、父の昌幸と二男の信繁(幸村)が西の豊臣方に加わり、長男の信幸(信之)は東の徳川勢に従いた。勝敗の帰趨にかかわらず、真田家の血脈を絶えさせないための「妙策」だった。
 その十五年後、幸村とその息子は大坂夏の陣で討ち死にした。徳川家康の天下となり盤石の備えに見えたが、家康が死ぬと一部の大名に対して疑心暗鬼の念が湧いてきた。二代将軍秀忠は、父と弟に冷たく袂を分けた真田信之に対し、いまひとつ信頼を置いていない。関ヶ原参戦で手痛い打撃を負った恨みもあったから、信之を松代に追いやったともいえる。彼の地で信之は九十三歳で長寿を全うする。『獅子』はその最晩年の物語で「中央公論」に一九七二年から翌年まで連載された。
 池波さんは「大坂の陣で幸村は死ぬが、後は『獅子』を読んでもらえばいい」と言って、『真田太平記』は終わった。最終巻「雲の峰」は信之の物語ともいえる。完結するより先に「続編」が出来上がっていたことになる。
 本書には信之の領民を思いやる気持ちが十二分に表現されている。徳川幕府が注視したのは類まれな治世の能力と財力だった。不安と恐怖すら抱いて、さまざまな嫌がらせを仕掛けていく。どんな些細な隙でも見逃がすまいと、多くの隠密を松代に送り込んだ。父子二代にわたって仕込まれ、引き継がれた者もいる。藩内の武士もいれば、市井の職人にやつすこともあった。
 信之が家督を譲った次男の松代藩主信政が急死し、その跡目をまだ生まれたばかりの庶子、右衛門佐に譲るか、信政の甥に当たる沼田藩主の信利に委ねるのか......。育て方に難があった信利は統治能力に欠け、人望もなかった。幕府で権勢をほしいままにしている老中筆頭の酒井忠清は右衛門佐の出生に疑義有りとして、血縁のある信利を後継に指名しようと策謀を巡らせる。隠居して京都でのんびり暮らしたいと考えていた信之だったが、窮地を救うため老躯に鞭打って立ち上がる。
「信濃の獅子」と恐れられていた信之と、酒井一派との謀略と知略の応酬は壮絶を極めた。決して表には出ず、闇の中で蠢く隠密たちの暗闘と彼らの運命的な内面の葛藤は、読む者に息を吐かせない。『真田太平記』のお江や佐助のような「草の者」といわれる「戦忍び」の時代は終わっていた。本書の隠密の行動様式はさらに時を経て「鬼平」と恐れられた火付盗賊改方、長谷川平蔵の「密偵」や「連絡」、「引込み」へと受け継がれている。
 享年六十七で幽明境を異にした池波さんは、信之に理想の老境を送らせたのだ。だから信之は長谷川平蔵や秋山小兵衛に通じるところがある。九十とは言わないまでも、もう少し池波さんに時間が許されれば、私たちをさらに喜ばせてくれる小説に出会えたのではないか、とせんないことをつい考えてしまう。
 池波さんには「真田もの」といわれるほど、真田家に題材を採った作品が多い。最初の直木賞候補作品となった「恩田木工」(後に「真田騒動」と改題)や受賞作「錯乱」などだ。本書はこれら「初期真田もの」の集大成というべきだろう。
 NHKの大河ドラマ「真田丸」(三谷幸喜作)の評価は置くとして、料理に例えるならエスニック風というか、無国籍料理といったところだろう。純粋日本料理でも正統フランス料理でもない。スパイシーで複雑味に富んでいる。
 このような料理の後には、どういうわけか「食後酒」を飲みたくなる。『獅子』こそ、まさに格好の食後酒といえよう。『獅子』を読み終えると、これもなぜか「恩田木工」や「錯乱」が収録されている『真田騒動―恩田木工』(新潮文庫)を手に取りたくなる。つまりまた食前酒に戻ってしまうのだ。そこにこそ池波文学の尽きぬ魅力があるような気がする。

 (しげかね・あつゆき 文芸ジャーナリスト)

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