書評

2016年12月号掲載

日本ではありえなかった物語

――福田和代『広域警察 極秘捜査班 BUG』

小飼弾

対象書籍名:『広域警察 極秘捜査班 BUG』
対象著者:福田和代
対象書籍ISBN:978-4-10-180155-1

 何とも気の毒なことである。『広域警察 極秘捜査班 BUG』上梓が11・9の後だということが。
 本作は、当局によって社会的に抹殺された主人公が、当局によって用意された別人として当局のために働くことを通して当局の闇を暴くという、米国のドラマではありふれた物語を、日本において成立させた意欲作である。なぜそれが意欲作かといえば、社会的に別人としてやり直すという事例が、米国では実例としていくつも存在するのに対し日本では絶無であるから。司法取引という制度を持たず、それゆえ証人保護プログラムという制度も持たず、よって一度社会に登場した人物が、過去の一切を消した上で別の社会人として生活する機会は、少なくとも制度の上ではありえないのだ。
 いや、一つある。未成年の犯罪者の成人後だ。この場合彼ないし彼女のアイデンティティは制度的に隠蔽され、少年院を出て社会人となった際には別人として扱われる、ことになっているが、制度上はそうなっていても、社会通念は真逆であることは神戸連続児童殺傷事件のその後を見ればあまりに明らかである。この国は、何人たりとも過去を捨てることを許さない。せっかく制度上別人となったのに、「前世」を売り物にする羽目になる程度には。
 そのありえない物語を成立させるため、著者はどうしたか?
 社会の方を改変させたのだ。本作がありうる世界に、本作がありうる日本に。
 例えば本作の世界には、PUという国際組織が登場する。欧州におけるECがEUに発展したように、アジア太平洋地域のAPECが本作のPUに発展したようなのだが、そのありえなさが、社会的に別人として生活する日本人に勝るとも劣らないのはTPPをめぐるドタバタを見れば否定し難い。しかし本作はフィクション。「実在の人物・団体とは一切関係ない」ことはもちろん日本でもごく当たり前に受け入れられている。社会的に別人になることはNGでも、別世界を用意してそこに別社会を構築することはOKなのだ。
 とはいえそれが読者に受け入れられるかは、実世界の住民たる読者がその別世界がいかに「ありえるか」と感じるかにかかっている。その点において日本は恵まれている。「世界線」という単語すら、物理学者はおろかライトノベルの読者、いや読者どころかアニメしか見ない層が日常会話で使うほど、異世界を受け入れることに前向きなのだこの国の人々は。
 しかしそれは「異世界ならばなんでもあり」を意味しない。むしろ現実に近い異世界ほど、わざわざそこに行く意義を見出しづらいのだ。悲しくてとてもやりきれない現実から逃避したい読者のための作品では本作はない。そういう読者は「小説家になろう」でお好きな転生先を探すべきだ。本作における現実改変は、あくまで米国ではありえるのに日本ではありえなかった物語を成立させるためのもので、それ以外はあくまでこの世界の延長線上にあるのだから。少なくともブレグジットまでは、本書の世界線はこの世界線そのものである。
 よって本書のリアリティは、改変部分がいかにリアルであるかと同時に、非改変部分がいかに現実通りであるかにもかかっている。後者において、福田和代はテッペンに近いテッパンであろうことは本誌の読者に今更申し上げるまでもないだろう。著者の現実描写力は、むしろノンフィクションにふさわしいのではないか。
 しかし現実とはかくも残酷なものか。作家たちがしのぎを削ってリアリティを磨いている矢先、それをあざ笑うかのごとくブラックスワンがヅラをかぶって登場するとは。2001年9月11日に同国で起きた事件のそれを上回る。きれいな顔してるだろ。ウソみたいだろ。死んでるんだぜ。米国の民主主義。
 こういったときのリアルな人々は、現実を凝視するか現実から逃避するかに忙しすぎて、虚構と現実の狭間をスラロームする本作を受け入れる余地に乏しいのは致し方がない。しかし本作を読み解くだけの読解力こそ、読者、いや有権者に本当に必要だったものなのだ。「○国へ帰れ!」という暴力を押しとどめるのは、結局のところ「もし私が言う側でなくて言われる側だったらどうなのだろう」という想像力しかないのだから。

 (こがい・だん プログラマー)

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