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書評・エッセイ

途方もないクライム・ノヴェル

――辻原登『籠の鸚鵡』

中条省平

 辻原登は現代日本の純文学を代表する作家で、とくに波瀾万丈かつ詩的香気にみちた歴史ロマンで有名ですが、ここ数年、純文学とエンタテインメントを途方もない筆力で融合させるクライム・ノヴェルの執筆に力を注ぎこんでいます。本作は、その辻原登独自の犯罪小説シリーズの新作、『冬の旅』と『寂しい丘で狩りをする』につづく待望の第3弾です。
 本作の特徴として最初に挙げるべきは、物語の流れの変幻自在ぶりでしょう。先ほど私は読者への手っとり早い紹介のために、本書を「クライム・ノヴェル(犯罪小説)」というジャンルに分類しましたが、この小説ははじめ、和歌山の町役場で出納室長を務める中年の梶康男と、スナックバー「Bergman」を経営するママ・増本カヨ子の関係を描く情痴小説のように展開します。真面目な梶をカヨ子は妖しい蛇のごとく誘惑しますが、彼女の手段はなんと手紙なのです。
 その手紙のエロティックなこと! 私は雑誌連載で本書の第1章を読んだとき、ついに辻原登が本格的なポルノグラフィに挑んだかと思いこんで興奮しました。それほど、手紙という反時代的なメディアを用いて、『籠の鸚鵡』は、近年まれに見る言葉による官能の高み(泥沼?)へと読者を拉しさってしまうのです。まずはこの小説のエロティックな言葉の魔術をお楽しみください。
 しかし、第2章でカヨ子の夫である不動産業者の紙谷覚が登場すると、話は思わぬ方向に逸れはじめ、ボケ老人から土地を巻きあげる犯罪の話に変わっていきます。つまり、『籠の鸚鵡』は、手の込んだ詐欺の物語としてもじつに興味深く読めるのです。
 だが、それだけではありません。この詐欺に絡んで、和歌山のヤクザ組織「春駒組」の若頭である峯尾宏が登場し、紙谷とカヨ子の夫婦を恐喝し、物語はさらに新たな興味を加速させます。こうなると読者は先の予想など放りだして、作者の巧緻きわまる話術に付いていくほかありません。開巻以来、ページを繰る手が止まらないのです。『籠の鸚鵡』は、辻原登の語り手としてのテクニックが最高度に発揮された一作に仕上がっています。
 ヤクザ峯尾の出現とともに、冒頭の梶とカヨ子のエロティックな関係にも裏があったことが明かされます。読者はそうした新事実を知らされながら、辻原登が細かく張りめぐらせた伏線の見事さにため息をつくことでしょう。
 ここでようやく舞台が1984年の和歌山に設定されていることの意味が分かります。当時、大阪では山口組と一和会の血で血を洗う抗争事件が勃発していて、その余波がもろに和歌山・春駒組の峯尾にも押しよせてくるからです。
 ここから先、峯尾が主人公となって、『籠の鸚鵡』は、『仁義なき戦い』にも匹敵するスリリングな実録ヤクザ路線の物語と化していきます。その細部のリアルさ、成りゆきの意外さについてはネタバレになるので語れませんが、ともかくミステリー通の読者にぜひ読んでいただきたいと思います。毎年刊行される『このミステリーがすごい!』でベスト作品に入るべき、これはエンタテインメント小説の傑作なのです。
 では、謹厳実直な梶や、エロスの化身のようなカヨ子、そして悪事に長けた頭脳明敏な紙谷たちはどうなるのかといえば、彼らも峯尾の犯罪に巻きこまれながら、それぞれの利益と人生を賭けて、ラストにむかって文字どおり疾走するのです。クエンティン・タランティーノの映画をしのぐ面白さです。
 とはいえ、『籠の鸚鵡』が単なるミステリーや娯楽小説と異なるのは、そこに日本文化の底を流れる神話的、人類学的な水脈との深いつながりがあるからです。
 峯尾は追手から逃れるため生まれ故郷の熊野の山奥に入るのですが、そこで彼は小栗判官の温泉による死骸再生の神話と出会ったり、熊野の滝からはるか海を望んで補陀落渡海の成仏を夢想するようになっていきます。その夢幻的な展開のなかから、文学のみが可能にする知的喜びとともに、日本人に親しい無常やあわれの感覚が滾々とあふれだしてきて、読者を酔わせます。
 生き残った3人が対決するラストに至って、この補陀落渡海のイメージが大きく前面にせり出し、『籠の鸚鵡』は、死を恐れ生に執着する人間たちのドラマを、生と死とを同じ輝きで包みこむ極楽浄土の幻影のなかへと解き放ちます。力のこもったクライマックスに圧倒される思いで私は本書を閉じました。

 (ちゅうじょう・しょうへい フランス文学者)

辻原登『籠の鸚鵡』978-4-10-456306-7