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書評・エッセイ

特集 村上柴田翻訳堂、この夏も元気に営業中です。

チャイナ・メン史ひとこま

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『チャイナ・メン』
マキシーン・ホン・キングストン 藤本和子/訳

津野海太郎

 柴田元幸氏を先頭に、この国に新しい翻訳の時代をもたらした方々がこぞって、その第一走者として藤本和子の名をあげている。彼女の最初の編集者だった人間としては、うれしいのだけれども、いささか情けない気がしないでもない。
「最初の」というのは、一九七五年に晶文社からでたリチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』の、という意味だが、その後、何冊かの訳書をへて、一九八三年に、やはり晶文社からこの作品を『アメリカの中国人』というタイトルでだしたころも、そこまでのことは考えていなかった。
 いや、いまはちがうのですよ。三十数年ぶりに藤本訳の『チャイナ・メン』を読み、うへえ、こんなに途方もなくすばらしい作品だったのか、とあっけにとられた。情けない。なぜ、もっと早く気づいて、『アメリカの鱒釣り』並みに、ばんばん売る努力をしなかったのだろう。
 下層労働者層の中国人移民(チャイナ・メン)たちやその幽霊たちの、おびただしい語り。それが織りなす爆発的な家族史・集団史――。
 その混沌たる中国人の時空を作者が英語で苦心して書きあげた大作を質の高い日本語に移してゆく。作者とその両親をもまきこんだ集中的な作業のさまがあとがきにしるされている。大げさにいえば、作中で語られる北米大陸横断鉄道の建設に動員されたチャイナ・メンさながらの過酷な労働の日々。いかに若かったとはいえ、和子さん、こんな厄介なしごとをよくやりとおしたものだね。
 若いといえば、もともと藤本和子は私の大学時代の劇団仲間だった。卒業後、渡米した彼女はエール大学の演劇大学院でまなび、同校で知り合ったデイヴィッド・グッドマン(のちイリノイ大学教授)と結婚。来日して、ふたりで創刊した英文演劇誌『コンサーンド・シアター・ジャパン』の編集にたずさわる。
 そのグッドマン氏に「いまアメリカの若い連中はどんな本を読んでるの?」ときいてみたことがある。そのときかれがあげたのが、カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』、イヴァン・イリッチの『脱学校の社会』、そして『アメリカの鱒釣り』の三冊だったのだ。
 たしか一九七三年だったと思うが、ヴォネガットとイリッチの本はすでに他社が翻訳権をとり、さいわい一点だけ残っていたブローティガンを晶文社でだすことになった。そのとき和子さんは翻訳者として小笠原豊樹氏の名をあげ、「新しい人のほうがいい、きみやれよ」と私がいいはって、けっきょく、そういうことになった。
 かくして私は「彼女の最初の編集者」になったのだが、いまやその和子さんが「新しい翻訳の時代の第一走者」とみなされている。その間にブローティガンもヴォネガットもイリッチも世を去り、私よりずっと若いグッドマンまでがいなくなった。チャイナ・メン史のひとこまのごとし。

 (つの・かいたろう 編集者、作家)

マキシーン・ホン・キングストン 藤本和子/訳『チャイナ・メン』978-4-10-220056-8