書評

2016年5月号掲載

安田さんが「あの場所」へ行った理由

――安田菜津紀 『君とまた、あの場所へ シリア難民の明日』

高橋源一郎

対象書籍名:『君とまた、あの場所へ シリア難民の明日』
対象著者:安田菜津紀
対象書籍ISBN:978-4-10-350031-5

 この本のいちばん最初に、一枚の写真のことが書かれている。それは、「家族と共にシリアから逃れようとした3歳の男の子、アイラン・クルディくんが、息絶え、トルコの浜辺に打ち上げられた写真だった」。その写真を見て、たくさんの人が何かを考え、感じただろう。けれども、写真も事件も次々にやって来る。だから、どんなに強烈な印象を受けた事件があっても、わたしたちは、やがて忘れてしまう。一枚の写真の背後に、どれだけ多くのことが秘められているかも忘れてしまう。けれども、その写真のことを、たまに思い出すと、わたしたちは、心のどこかでぼんやり、痛みのようなものを感じる。動画だったらもっと生々しいはずなのに、写真の方がいつまでもひっかかっているような気がすることがある。それはいったいなぜなんだろう。
 この本には、たくさんの写真もおさめられている。それは、ただの写真ではなく、わたしたちが、ニュースや論説で、情報だけは少し知っているけれど、実際にはなにも知らない「あの場所」の写真だ。車の上に子どもたちが乗って(そう、屋根の上にも!)笑いながら拍手をしている。どうして、そんなに楽しそうなんだろうか。それから、夜、近くの山の上から見下ろした街の写真。明るく、美しく、宝石みたいに(陳腐な言い方だけど)輝く街が、そこにある。もちろん、それだけではなく、どこまでも続く難民キャンプの写真も、その困難な環境の下で懸命に学んでいる子どもたちの写真もある。いや、もっと悲しい写真だってあるのだ。そして、わたしたちは、なんともいえない感覚に陥るのである。
 写真は、わたしたちを否応なく、「あの場所」に連れてゆく。それなら、テレビの映像や動画だって同じだ。違うのは、写真は、その瞬間を永遠に切り取ってしまうことだ。そして、その瞬間を、いつまでも見続けるように、促されることだ。撮影した人間が、直視しなければならなかったものを、わたしたちも見なければならない。ただ通りすぎるだけの傍観者ではなく、なにをしていいのか混乱しているひとりの人間として、見続けること。それが写真の力だ。そして、そんな力だけが、「あの場所」という言い方しかできない抽象的な存在を、もっとずっと異なった具体的なものに変えてゆけるのだ。
 ここまで考えて、ようやく、わたしは、安田菜津紀さんの本、『君とまた、あの場所へ』について書くことができる。
 安田さんは、あるきっかけがあって、「シリア」を知った。でも、そのときのシリアといまのシリアは違う。わたしたちは、以前のシリアをほとんど知らなかった。では、いまのシリアについてはどうだろう。わたしたちは、確かに、知っている。いま、「あちらの方」では、禍々しいことがたくさん起っている。凶暴で狂信的な集団が、テロを世界中にばらまいていることも、それから、その狂信的な集団が生れたあたりの国々や地帯では、政府やら反政府勢力やら、どちらともいえない集団が跋扈し、それに、アメリカやヨーロッパやロシアや、それから、「あちら」にあって、お金持ちだったり、大きかったりする国なんかが入り乱れて、学校で習った「戦国時代」のようなことが起っていることも、なんとなく知っている。その結果として、すごい数の難民が生れていることも知っている。そう、そうして、最初に書いた、海岸に流れついた男の子のことも。それらの断片的な知識や情報が合わさって、わたしたちは、なんとなく、「シリア」というのは「あちら」のシンボルのような国で、そこの人たちは、とても可哀そうだ、ということだけは知っているのである。
 では、この本の中に、安田さんが書いていることは何なのだろう。わたしたちは、この本を読みながら、安田さんが出会った人たちと(安田さんの背後から、そっと眺めるように)出会う。そして、そこに、わたしたちと同じように生き、苦しむ、人たちを見る。いや、そうではない。彼らの苦しみは、わたしたちより深く、だからこそ、小さな喜びにも心を震わせている。そんな彼らと出会うとき、わたしたちは、思わず、こう呟くのである。「わたしたちは、ほんとうに生きている、といえるのだろうか」
 誰かが「あの場所」へ行く。それは、そこにわたしたちを連れてゆき、わたしたちを生き直させてくれるためなのだ。

 (たかはし・げんいちろう 作家)

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