書評

2016年3月号掲載

この不思議な祝祭感

――リュドミラ・ウリツカヤ『陽気なお葬式』(新潮クレスト・ブックス)

平松洋子

対象書籍名:『陽気なお葬式』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:リュドミラ・ウリツカヤ著/奈倉有里訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590124-0

 いまだに不思議でならない。死を正面切って扱いながら、この祝祭感はどうだろう。行間から、カーニバルの喧噪や機嫌のいい笑い声さえ聞こえてきそうだ。ベッドに横たわっている男は、今しも息絶えようとしているのに。
 冒頭いきなり、意表を突かれる。うだるような暑さのニューヨーク、マンハッタン。クーラーが壊れっ放しのアパートの一室に五人の女が集まっているのだが......。
「シャワーはずっと使用中で、常に誰かが順番を待っていた。みんなとっくに服など脱ぎ捨ててしまっていたけれど、ワレンチーナだけはブラジャーをつけていた」
 目前にもりもりと迫りくる汗に濡れた女たちの裸体。なのに、傍らには「固まりかけの石膏のような」赤毛の髭面男が死の床についている。生と死の無残な対比であるはずなのに、どこか滑稽で、なにかが破格。いったいウリツカヤは死をどう描こうとしているのか。のっけから浮上する疑問こそ、『陽気なお葬式』に用意された最大の妙味なのだが、それは同時に、物語の奇蹟へと至る扉でもあった。本作が執筆されたのは、一九九二年から九七年にかけて。八〇年代から断続的に滞在したニューヨークでの見聞が物語の着想を与えたというのだから、興味はいや増す。
 マンハッタンに暮らす亡命ロシア人の生活の細部が、極めていきいきと描かれる。主人公アーリクは病院での延命治療を拒み、未払い家賃を何年も溜めこんだアパートへ戻ってきた亡命ロシア人画家。ロシアでもアメリカに渡って二十年過ぎても、あらゆる束縛から逃れ、鳥のように自由に生きてきた男である。しかし、人生の幕切れはやってきた。アーリクを愛した女たちは、「キリストに香油を塗りに来る」かのように集う。現在の妻ニーナ、昔の恋人、愛人たち(冒頭の汗みずくの裸体!)。ニーナは奇矯な女で、お金に決して触れず、料理嫌い、三度の自殺未遂、アルコール依存症、そしてとびきり美しい。かつての恋人イリーナは元サーカス団員、アメリカで弁護士として成功した変わり種。その娘、自閉症気味の十五歳のマイカが心を開くのは、アーリクだけ......めっぽう個性の強いロシア出身の女たちが次々に登場し、マトリョーシカのつるつるぴかぴかの頬っぺたなど思い出す。しかし、女たちから生命力を引き出し、輝かせているのは死にゆくアーリクなのだ。しかも、彼の周囲に起こる出来事はいちいち風変わりで滑稽だ。洗礼を授けるために神父が訪れ、そこへラビもやってきて、聖職者がまさかの鉢合わせ。しかし、テキーラやウォッカを酌み交わしながら哲学的な会話を楽しむはめになり、けっきょくアーリクは混沌のうちに宗教そのものを飲み込んでしまう。
 宗教、国家や政治の枠組みを超え、ボヘミアンとして生きてきた埒外の人生に、ウリツカヤは憧憬にも似た共感を表明する。また、自身がニューヨーク社会に対して抱いた違和感を亡命ロシア人の医者フィーマの胸中に重ね、こう語っている。
「彼を育ててくれた土地では、苦痛を好み、高く評価し、糧にすらしていた」
 医療の名のもとに痛みや苦しみを否定し、日常から覆い隠そうとする現代社会に、ウリツカヤは異議を唱える。死に寄り添わなければ、人間が拠って立つ大地を失ってしまう、と。
 ウリツカヤの描く死は、生の官能とともにある。生もまた、死とともにある。だからこそ、アーリクの死は朗らかで明るく、祝祭感を帯びるのだ。『陽気なお葬式』が祝福するもの、それは人間の尊厳である。私が感に堪えないのは、こころ震わされるのは、物語の母胎としてのウリツカヤの底知れぬ懐の深さである。
 物語が幕を閉じる直前、アーリクは驚くべき恩寵をもたらす。そのとき、私たちは知らされる。死は喪失の空白をも充たす、ということを。アーリクの愛人ワレンチーナが、カーニバルじみた会葬の群衆の前でロシアの古い民謡を歌い踊り、手足を打ち鳴らして叫ぶ。
「ウーッ アィアィアィ!
 俺のアイロンは熱くなり......」
 誇らしげに、堂々と響きわたる生命の雄叫び。『陽気なお葬式』は、ウリツカヤ渾身の寿歌(ほぎうた)である。私も、いっしょに歌いたい。ウーッ、アィアィアィ!

 (ひらまつ・ようこ エッセイスト)

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