書評

2015年11月号掲載

おのがじしの文学

――高井有一『時のながめ』

佐伯一麦

対象書籍名:『時のながめ』
対象著者:高井有一
対象書籍ISBN:978-4-10-311606-6

 本業の小説の傍ら、折に触れて自身の身辺雑記を執筆し、一冊の本になる分量が溜まったら随筆集として出版する。そんなふうにして出来上がった随筆集を読むのを長年楽しみにしてきた。尾崎一雄、永井龍男、野口冨士男、庄野潤三、三浦哲郎、古井由吉......。
 近頃は、随筆集そのものが出版されることがめっきり少なくなり、残念に思っていたところだったので、やはり先の作家たち同様に、出るたびに親しんできた高井有一氏の随筆集の新刊は悦ばしいことだった。
 緊張と集中の持続である小説とは異なり、折々の興にまかせて綴られる随筆には、寛ぎの色がある。とはいえ、世情が反映することともなるので、「近ごろの世の有様を見てゐると、〈昭和〉の遺産をさう長くないうちに食ひ潰してしまふのではないか、といささかならず気懸りになる」(「昭和のあとの十五年」)というような苦い思いの吐露もある。戦後七十年となったこの夏、私は、氏が戦時を生きる市井の人々の日常を描いた『この国の空』を、同じく戦争を知らない世代である中島京子氏の懇切な解説に頷かされながら、文庫本で再読したことだった。
 このたびの『時のながめ』という題名は、総じて、宮本武蔵が『五輪書』の中で、「観の目つよく、見の目よはく見るべし」と述べたような視線を感じさせる本書にふさわしく、また、昭和五十二年に上梓された最初の随筆集『観察者の力』と照応しているようにも思われた。
 そこに収録されていた「山あひにて」という文章で、四十代だった高井氏は、〈明治の半ば過ぎに田舎から出てきて東京へ定着した家の三代目に当る私には、故郷と呼べる土地はない。祖父が生まれた町には、古い墓があるばかりである〉と記していた。それが本書では、「私の郷里、秋田県角館町の桜は、ゴールデンウイークのころが盛りと憶えてゐたものだが、今年四月末に訪ねたときには、早や半ばが葉桜であつた」(「北の桜」)、「『信長』が評判になつてよく売れた一九九六年の秋、私は彼を秋田にある私の郷里の町へ連れて行き、講演をしてもらつた」(「石ころと天才の間――秋山駿の思ひ出」)とあり、ほかに「郷里の町の人と風景」として目次にまとめられたいくつかの小文もある。
 疎開先の東北の川に身を投げて歿くなった母親のことを書いて昭和四十一年に芥川賞を受賞した「北の河」の土地(小説では「町」としか書かれていなかった)は、長い歳月をかけて作者からながめられ、郷里の町として受容されるようになったのだろう。
 一九九二年の秋に、黒井千次氏を団長とする日中文化交流団の一員として、高井氏とともに私も初めて中国を訪れたことがあった。その折にもたれた交流の席で、たとえ日本人同士でも次の世代に戦争の体験を伝えることなど現実には無理で、私は戦後世代は違う人種だとさえ思っている、ましてや中国と日本が簡単に理解し合えるはずもない、と高井氏は穏やかな口調ながら毅然と言い放った。
 ざわついた中国側と共に、私も、横面を張られたような思いを味わったが、そうした席でも情に絆(ほださない冷徹な言葉には、不思議に得心がいく思いがしたことも事実だった。背中を向けられてしまった拒絶は、黙って見送るしかないが、高井氏の個個を峻別する姿勢は、面と向かってであり、時に笑いを伴いもし、決して意思の伝達を遮断するものではない。
 そういえば氏はすでに、『観察者の力』に収められ書名にも取られた随筆の中で、鴨長明の『方丈記』に触れて、「多くの天変地異に奇怪なほど正確な観察を強ひたのは、彼の"好奇心"だと言はれる」と述べていた。世に背中を向けずに、その好奇心のはたらきで現実を見続けた人間の力は、確かに氏の随筆からも窺えるものである。
 本書でも「老いをめぐつて」の中で触れられている、一九九六年にいわゆる内向の世代と称される小説家たちが集まった座談会が開かれたときに、最も印象的だったのが、世代ということで一番動かしがたいのは、我々は六十に差しかかり、今まで六十歳を過ぎた作家が、それ以前の自作を凌駕する作品を書けたためしはない、という高井氏の発言だった。「おのがじしどれだけ自身の穴を掘れるかだね」という言葉を、五十代の後半になった私は思い返すことが多くなった。

 (さえき・かずみ 作家)

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