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書評・エッセイ

不完全であるという自由

――ジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』(新潮クレスト・ブックス)

マイケル・エメリック

 ジュンパ・ラヒリの作品から、冴え冴えとした視線を感じることがある。波に揺られつつ海のなかを懸命に泳いでゆく登場人物たちを、作家が一心に、しかし浜辺を見おろす小高い崖の上から見守るような、常に一定の距離を保った、温度の低い愛情。あるいは「かわいい子には旅をさせよ」という日本語のことわざがもつ自制の雰囲気にも、それは少し似ているのかもしれない。
『べつの言葉で』は小説ではなく、ラヒリの初めてのエッセイ集である。ここにも、あの冷静な感性が全編に滲み出ている。違うのはラヒリが崖の上からじっと眺めつづける対象だ。首まで海水に浸かってもがいているのは、小説中の架空の人物ではなく、ほかでもない、生身のラヒリ自身である。
 本書は、きわめて大胆な言語的・精神的実験の記録といってもよい。生まれ育った西ベンガルを後にしてイギリス、それから米国に移民した両親のもとに生まれたラヒリは、幼いときからベンガル語と英語の両方に浸ってきた。ベンガル語は家族の言葉だったので読み書きはほとんどできず、これまでの著作はすべて英語で発表してきた。しかし、今回の『べつの言葉で』は違う。英語ではなく、ましてベンガル語でもなく、成人してから一種の趣味として学習しはじめたイタリア語で書かれているのだ。
 趣味として勉強しはじめたといっても、本書に描かれるラヒリのイタリア語との付き合い方は真剣そのものだ。まるで俗世を捨て、神に命を捧げる尼僧のように、英語の読書を一切やめてまで、イタリア語に没頭する。あげくの果てには家族を連れてローマに移住してしまうのである。聖書のページを大事に繰る信者のようにイタリア語の辞書で言葉を引き、ノートにメモをとる。やがてはイタリア語で短い文章を書きはじめる。日記、エッセイ、掌編小説。そしてそれが本になったのである。
 バイリンガルのラヒリ氏にとっては、英語とベンガル語はどちらも必須の言語だった。米国社会のなかで生きるために、また愛する家族の一員であるために欠かすことはできなかった。それに対してイタリア語は彼女にはまったく必要がなかった言葉である。不要だが、不要であるからこそ、何より重要で核心的な言葉になる。
「イタリア語を勉強するのは、わたしの人生における英語とベンガル語の長い対立から逃れることだと思う」とラヒリ氏は説明している。

 わたしの言語遍歴に三つめのイタリア語が加わったことで、三角形が形成される。直線ではなく一つの形が作られる。(中略)三つめの点ができることで、昔から仲が悪かったカップルの力学が変化する。わたしはこの不幸な二つの点の娘だが、三つめの点はその二つから生まれるのではない。わたしの願い、努力から生まれる。わたしから生まれるのだ。

 イタリア語を学びつづけることによって、ラヒリは初めて自主的に「自分の言葉」を見つけることができたのである。たとえ死ぬまでその言葉を英語ほど完璧に操れるようにはなれないとしても。
 直接言及されてはいないが、ベンガル語と英語から身を引き、元来自分とは何の関係もなかった言語であるイタリア語へ深く潜っていこうと決心するのは、同時に「文学」への愛情をさらに深める行為でもあるように思う。英語の作家として、それこそ水を得た魚のようにすいすいと、いかにも軽やかにエレガントに泳ぐことのできるラヒリ氏は、成人してから学びはじめたイタリア語で執筆することの不自由さを引き受けることで、もっとも純粋な形で文学者であることを選び直したといえるのではないだろうか。
 文学も、ある意味必要のない、無駄なものだ。本書を読みながら、人間の生存にとって不要である文学が、不要だからこそ、いかに重要であるかを改めて感じることができた。これはとてもいい本の、とてもいい翻訳である。あちこちにちりばめられたイタリア語の単語を意味も分からず口のなかで転がしながら、私も少しだけイタリア語が勉強したくなった。

 (マイケル・エメリック 日本文学・翻訳家)

ジュンパ・ラヒリ著/中嶋浩郎訳『べつの言葉で』(新潮クレスト・ブックス)978-4-10-590120-2