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書評・エッセイ

歪み、軋み、熱を帯びる小説

――滝口悠生『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』

町田康

 昔。当今のごとく機材のよく整備されていないライブハウスや狭いリハーサルスタジオなどで演奏するとき、しばしばハウリング現象が起きた。大音響を発するエレキギターやドラムスに対抗するためにボーカルの音量を高くすると、マイクから入ってアンプを経由してスピーカーから出た音をまたマイクが拾って、という音の悪因縁に陥るのである。
 そのハウリング音たるや、たとえ悟りを開いたとしても耐えられない不快な音で、なのでボーカルの音量は一定以上、高くできず、昔のボーカリストはみな、がなるようにして歌っており、そのことは音楽のスタイルや歌詞に大きな影響を与えていたと思う。いまのように低体温な感じではけっして歌えなかったのである。
 そういうボーカリストの立場から見るとギターリストというのはきわめて羨ましい存在であった。というのはそらそうだ、こっちは生身で振り絞るようにして声を出している。しかるにギターリストはというと指先で、ちょいっ、とアンプのボリュームを操作するだけで易々と爆音・轟音を出すことができるのであり、どうしたって対抗できるものではない。
 しかしでもギターと雖もアンプを使って音を増幅しているのだからボーカルと同じくハウリングが起きないのか、というとそういうことがあった。けれどもギターにおいてはそれはハウリングではなく、フィードバック奏法という奏者によって意図された奏法で、ハウリングが忌むべき悪しきものであったのに比して、フィードバックはロックサウンドに欠かせぬ佳きものであったのである。
 そのフィードバック奏法の名手であったジミ・ヘンドリックスとそのグループ名を題名としたこの小説は、過去の記憶や経験を書く場合、ボーカリストとして書くと自分の声をなるべく大きく聞かせようとして悪しきハウリングを発生させてしまいがちなところを、ギターリストとして書くことによって、記憶や経験をフィードバックさせて気色のよいサウンドを鳴らしている。
 どういうことかというと、例えば十四年前に見たものを書く。そのためには十四年前のことをまず思い出す。記憶の弦を弾くのである。そして書く。すなわち、その弾いた弦の振動を磁石が拾い、その電流をアンプで増幅する、文章が爆音となってアンプから出る。そしてその書かれた音をまたピックアップが拾う。ここにフィードバックの環が完成するということである。
 過去と現在がループして互いに影響を与え合い、作られた愛おしい人生の時間が現出するのである。
 そしてループしフィードバックするのは過去と現在だけではなく、過去のある時期とまた別の時期がフィードバックする。或いは、こうであったであろうという記憶とそうあったかもしれないという可能性が、書くこと、すなわちそれを増幅させることによってフィードバックする。そのときその瞬間の自分の考えも書くことによってフィードバックして歪み、考えと考えが軋んで熱を帯びる。その熱がこの小説の最大の魅力である。
 ジミ・ヘンドリックスその人がギターを燃やしたその炎が、そのパフォーマンスがフィードバックして七輪の炭火やバーベキュー場での焚き火となる。相手にまったく伝わらない演奏となる。笑うなあ。でも、泣くなあ、と私は思った。
 そして最終的には自分がフィードバックしてくる。語り手がフィードバックして二重写しになる。恐ろしいくらい素晴らしい瞬間である。
 書くのは自分なのでどうとでも書くことができる。なので過去の記憶や経験や感情を書くとは自分が気色よいように、自分にとって都合がよいように書く、と、悪しきハウリングに陥る。
 その段、フィードバックは書き手が意識的にやっていること。書き手の管理下にあるノイズだから気色がよいのさ、ってことか。違う。フィードバックが気色がよいのはそれが常に逸脱をはらんでいるからだっせ。それをギリギリ限界で操っているからだっせ。とギターリストなら言うだろう。仰る通りだと思う。思いたくる。と、少しだけハウって。

 (まちだ・こう 作家)

滝口悠生『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』978-4-10-335312-6