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書評・エッセイ

『宰相A』刊行記念特集

宰相Aって、あの宰相Aのこと?

――田中慎弥『宰相A』

斎藤美奈子

 このタイトルだけで「おっ、なになに?」と身を乗り出す読者は多いはず。宰相Aって、あの宰相Aのこと?
 まあまあ、結論は急がずに。
 田中慎弥『宰相A』は、一言でいえばパラレルワールドものである。母の墓参りのため、ほぼ三〇年ぶりに故郷の駅に降り立った「私」こと作家のTは、そこが自分の知らない日本であることに気づく。聞こえてくるのは英語だけ。いるのはアングロサクソン系の人ばかり。
 先の戦争が終わった後、日本はアメリカが統治する国となり、アングロサクソン系の白人たちが「日本人」に、かつてこの地に住んでいたアジア系の人々は「旧日本人」と呼ばれている。旧日本人は「居住区」に押し込められ、選挙権もない。ただし反乱を封じるため、首相だけは旧日本人の中から選ばれている。その人こそが宰相Aだ。対米従属国なんていう程度ではない、文字通りの傀儡国家!
 そこに紛れ込んだ「私」は旧日本人コミュニティに伝わる英雄的な反逆者Jの再来とみなされ、皮肉な運命に巻きこまれていくのである。「私」の希望は母の墓を探すことと、紙と鉛筆を手に入れることだけなのに。
 一〇年前、二〇年前だったら、一種の諷刺小説としてもっと余裕で読めたかもね。しかし今日、作中の「戯画化された日本」と「現実の日本」はますます近似しつつある。なにしろ作中の日本は〈我が国は依然としてアメリカとともに某大陸の某丘陵地帯にて某国と某交戦中〉。モニターに映し出された首相は興奮気味に〈最大の同盟国であり友人であるアメリカとともに全人類の夢である平和を求めて戦う。これこそが我々の掲げる戦争主義的世界的平和主義による平和的民主主義的戦争なのであります〉なぞと語るのだ。
 はたして宰相Aとは、あの宰相Aのことなのか。
 半分は正解、でも半分は不正解かな。
 作中の宰相Aと現実の宰相Aは、たしかに重なるところがあり、『宰相A』はアメリカに意のままに操られているかのような現政権への告発小説と読めぬでもない。
 しかし、そのような読み方に限定するのは、小説の矮小化ってものだろう。宰相Aの「A」は、「少年A」のような特定されない為政者を指す頭文字ともとれるのだ。民族や宗教や人種のちがいに由来する際限のない差別と殺戮。国家がふるう暴力もまた狂気に近い。スターリン時代のソ連も、ナチスドイツも、あるいは今日の中東も。
 後半、「私」は旧日本人から日本人に昇格した「内通者」の女性と関係を持ち、そのことと居住区内で発生した暴動が原因で、女ともども凄まじい拷問にあう。
 作中には、イエス・キリストからカフカの『城』、映画の『ゴッドファーザー』、割腹自殺した三島由紀夫まで、さまざまなイメージが点滅し、読者を迷宮に誘い込む。冒頭近くで「私」の夢に出てきた母の言葉が示唆的だ。
〈あなたが生れたのは特に、男たちがお話の主人公になりたくてなりたくて仕方ないっていう時代だった。日本がアメリカ相手に太平洋の真ん中で始めた大っきな戦争が終ってから二十年以上経ってるのに、ベトナムでもまたやってた。(略)自分に夢中。お話の中に僕も混ぜて。主人公にしてして。戦争する男も反対する男も、自分が神の子どものあの人みたいにこの世を救うんだって信じてたのかしら〉
「私」は結局、拷問の末に記憶を失い、正式な日本人として〈機械的に当局に都合のよいものしか書かない御用作家〉になるのだが……。十分、世界文学たりえる問題作。荒唐無稽なお話として、笑い飛ばせない現在がおそろしい。

 (さいとう・みなこ 文芸評論家)

田中慎弥『宰相A』978-4-10-304134-4