書評

2014年11月号掲載

『親鸞「四つの謎」を解く』刊行記念特集

親鸞の森に投じられた剛速球

――梅原猛『親鸞「四つの謎」を解く』を読む

五木寛之

対象書籍名:『親鸞「四つの謎」を解く』
対象著者:梅原猛
対象書籍ISBN:978-4-10-303024-9

img_201411_03_1.jpg

 梅原さんの「親鸞」が、ついに出た。
 ついに、というのは、私の勝手な思い入れである。この十年あまり、梅原さんとお目にかかるたびに、
「いよいよ親鸞をやるからな」
 と、借金の取り立てでも宣言するように、くり返し念を押されていたからである。そんな時、私よりはるかに年長である梅原さんの目が、少年のようにキラキラ光るのがまぶしかった。
 こんど上梓された『親鸞「四つの謎」を解く』は、常識はずれの大学者である梅原さんが、おそらく渾身の力をふりしぼって投じた剛速球のような一冊である。
 スーパー歌舞伎の先代猿之助さんがそうであったように、芸術という世界はケレン味が本質である。その時代に掟破りのアウトサイダーのように見られていた表現者だけが、古典として残るのだ。ドストエフスキーがいい例である。極端なほどの毀誉褒貶(きよほうへん)の嵐の中で、現役時代の彼がどれほどもみくしゃにされたことか。
 はっきりいって梅原猛という存在もまた、常にジャーナリズムに激烈な「嵐を呼ぶ男」だったといっていい。
 これまでの『地獄の思想』にはじまる梅原日本学には、熱い読者の支持と同時に、さまざまな批判も少くなかったようである。
 しかし、それこそが梅原学の真価ではないかと私は思う。その梅原さんが、今回はじめて親鸞と真正面から格闘をいどんだのが、『親鸞「四つの謎」を解く』だ。
 親鸞という存在は、ある意味で暗くて深い森のような気配がある。その生涯についても、諸説入り乱れて、調べれば調べるほどわからなくなってくる。私も森の入口ですでに道に迷ってとほうにくれている一人だ。
 梅原さんは、そこに大胆に踏み込んでいく。
 そのきっかけとなったのが、佐々木正さんの親鸞についての著作である。
 佐々木さんは、一九九〇年代から一貫して、正統とされる覚如の『親鸞伝絵(でんね)』(本願寺聖人親鸞伝絵)と別なルートをたどって親鸞の生涯に迫りつづけた人である。近代史学においてもっぱら異端の偽書とみなされてきた『正明伝(しょうみょうでん)』(親鸞聖人正明伝)の伝承のなかに、親鸞みずから残した足跡をたどった『親鸞始記』など、思想的スリルに富んだ名著だった。資料よりもフォークロアにこそ真実は隠されているのだ。
 梅原さんは、中学生のときに『歎異抄』に出会い、今日までひそかにその生涯の謎を思索しつづけてきた。そこに佐々木さんの著作が火を点じて、烈火のごとくに燃えあがったのが『親鸞「四つの謎」を解く』だったのだろう。
 大きくわけて、この本は「出家の謎」「法然帰依の理由」「あの結婚の意味」「親鸞の悪の自覚とは何か」、のスリリングな四つの追跡からなる。
 それぞれに梅原さんならではの学識と思索が存分に発揮されて、ページをおくあたわざる興味をそそられるが、それ以上に、実際に現場に足を運んでの体感をつみ重ねたルポルタージュとしても感動的だ。これは書斎の机の上で書かれた書物ではない。親鸞もまたホモ・モーベンスの一人だった。親鸞と同じように年を重ねた梅原さんが、一歩一歩、大地を踏みしめて歩んだ汗と執念の中から生みだされた一冊であると感動させられた。
 これまでの梅原学から、さらに新しい世界がここにひらかれたといっていい。親鸞の森の暗がりの中に灯された一つの光がここにある。それにしても梅原猛とは、凄い人であると、つくづく思う。

 (いつき・ひろゆき 作家)

最新の書評

ページの先頭へ