書評

2014年10月号掲載

ひとの一生と永遠の相

――田野武裕『夢見の丘』

南木佳士

対象書籍名:『夢見の丘』
対象著者:田野武裕
対象書籍ISBN:978-4-10-385202-5

 田野武裕(たのたけひろ)という作家を知ったのは、昭和五十七(一九八二)年下半期の第五十五回文學界新人賞受賞作「浮上」を読んだときだった。もう三十年以上も前になる。
 わたしも前年にこの賞で作家の末席に加わったので、歴代の受賞作はこころして読んできたつもりだが、田野さんの「浮上」はマイベストスリーに入る。他は木崎さと子さんの「裸足」、青来有一さんの「ジェロニモの十字架」だ。
 誠実な医師らしい明晰な論理に裏打ちされた抒情あふれる田野さんの文体は、読む者の胸にさわやかな風を送り込む力があった。
 わが身にとってはじつに久しぶりに接するこの田野作品でも、その力は遺憾なく発揮されており、作家のすべての才能は処女作に包含されている、との古くさい箴言の意味するものの新鮮さをあらためて実感させられた。

 かつては禿山だったこの丘からは、眼前に犇き合った家並や煙突、背後に田畑、左手に海原、右手遠方に空を鋭く切りとる山脈の連なっているのが望まれたものだ。だがいつのまにか鳥たちに運ばれた種が育ち、人びとの保護も加わり、四阿の屋根さえ見極めがつかないほどの大樹が繁るようになった。

 読者はまず丘の周辺の地理をしっかり頭に入れ、脳裏に描いておく必要がある。なんといっても、小説の主人公は丘の上に建つ不動の四阿(あずまや)そのものなのだから。
 この四阿は、緑陰に紛れて定かでなくなった登り口を探してたどり着いた者を眠りにつかせ、その記憶の奥底で爆発する機会を待っている剣呑な「忘却」に寄り添い、放熱放電する力を有する。四阿がおのれのこのような能力に気づいたのは数百年前のこと。
 物語は多重人格(解離性同一性障害)の朝美(ともみ)という若い女性を中心に展開するが、四阿はなぜ意識を持ち、多くの天災を目撃し、丘の上に建ちつづけているのか。
 なかなか明かされぬ謎が物語を駆動し、読む者を引き込む。
 たかだか百年弱のひとの一生を、永遠の相の下で見守る四阿。
 多重人格の症状を記述する心療内科医としての作者の筆致は正確で、この病気の厄介さが真に迫って来る。安心して休める場所の喪失が人格の解離の原因の重要な要素だとしたら、この四阿はまさに現代では失われてしまった安らぎの場そのものなのだろう。

記憶の仕組みが明瞭ではなく、学習能力もない。何を覚え何を覚えないかを、自分で決められないし、記憶としてあるものの理由も不明だ。
  この状態に気づいたのは、おそらく来訪者の夢に寄り添ってきたからだろう。人びとの脳の働きに親しむうちに違いを知った。今ではこの相違を受け入れている。私は丘の上に粛然として立ち、あらゆる風を受け入れ、あらゆる方角へ送り出す。老若男女を問わず、休みたいひとを拒まない。何も教えられず、何も強要できない。休み処の座面は固く、腰板も低い。日差しと驟雨は避けられるが、嵐や吹雪には無力だ。

 四阿がみずからの存在をいくぶん卑下しつつ規定するこの一節は、小さな説を書くことによっておのれが何者であるのかを確かめずにはおられない、医療行為そのものや医学論文を書くことのみでは自己確認の作業になにかしらの瑕疵があると気づいてしまう敏感で生真面目な医師兼作家の原点を見せられるようだ。田野さん、すでに高齢者の域に入っておられるはずなのに。

 冒頭に阪神・淡路大震災と東日本大震災の起こった年月日時分が正確に記されている。
「忘却を待たるるも 其を能わずして傷心する者多し。忘却の許されざる役目に在るも 其を装いて世にはばかる者また多し。さあれど何れの衆生も 南無阿弥陀仏」。
 生年一四四三年・没年不明の経円上人のことばも並んで記されている。
 読了後、ここにもどってみると、ひとの本質はいつの世もまったく変わっておらず、いずれの衆生も生きのびるために、常にこの四阿のごときものを必要としているのだとの想いを深くする。

 (なぎ・けいし 作家・医師)

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