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書評・エッセイ

後ひき度MAX! 動揺必至の衝撃作

――早見和真『イノセント・デイズ』

藤田香織

 凄まじい物語である。
 読みながら次第に上昇していった心拍数が、エピローグで一気に跳ね上がり、今尚落ち着かない。冷静になろうと努めても、物語を振り返ると再び心臓がドクドクと早打ちし出す。呼吸が浅くなる。嫌な汗が滲む。自分の価値観を問われ、度量の限界を思い知らされている。途方もない心細さとやるせなさが波のように押し寄せてくる。この衝撃、この動揺。小説を読んでこれほど心が乱されたことは、久しくなかった。
〈主文、被告人を――死刑に処する!〉。
 秋深いある日、横浜地裁でひとつの判決が下された。被告人の田中幸乃はこの時二十四歳。二年前に別れた元交際相手の井上敬介に執拗なストーカー行為を繰り返した挙句、その自宅アパートに火をつけ、敬介の妻と幼い双子の娘を死亡させた放火殺人の罪が科せられていた。複数の目撃証言などにより、警察は事件当日の夕方には幸乃の自宅に踏み込み、大量の睡眠薬を服用し自殺を図ろうとしていた彼女を逮捕。幸乃は敬介一家への殺意を認め、事件は迅速に収束をみせていた。
 しかし、世間の注目度は高く、週刊誌を中心としたマスコミは幸乃の過去を暴き立てた。幸乃の母親が十七歳で私生児として彼女を産んだこと。養父から受けていた虐待。中学時代には不良グループに加わり、強盗致傷事件を起こし児童自立支援施設に入所していたという事実。事件直前、幸乃が整形手術を受けていたことも明らかになった。マスコミによって〈整形シンデレラ放火事件〉と命名された事件の犯人・田中幸乃は、身勝手な理由で母子三人を焼き殺した鬼女として、人々の記憶に深く刻まれたのである。
 二部構成で描かれる物語は、そんな幸乃の真実を深く静かに追っていく。事件発生に至るまでの第一部は、幸乃をとりあげた産科医・丹下建生の回想から幕を開ける。養父の連れ子で幸乃のひとつ年上の姉となった陽子、中学時代の同級生・小曽根理子、事件により妻子を亡くした敬介の友人・八田聡。第五章では幸乃自身へと焦点を移し語られるエピソードは、読者が抱いた彼女のイメージを少しずつ塗り替えていく。〈覚悟のない十七歳の母のもと――〉〈養父からの激しい暴力にさらされて――〉〈中学時代には強盗致傷事件を――〉〈罪なき過去の交際相手を――〉〈その計画性と深い殺意を考えれば――〉。死刑を言い渡した裁判長の言葉を引用した各章タイトルは、嘘ではないが真実でもない。その印象と実像のズレが、次第に読み手の心をざわつかせるのだ。
 続いて判決以後の第二部では、第二章にも登場した幸乃が幼い頃共に遊んだ“丘の探検隊”仲間の丹下翔と佐々木慎一が、彼女を救う術を模索する姿が描かれる。産科医の丹下の孫であり、父親と同じく弁護士となった翔は、控訴はせず、刑に従おうとする幸乃の力になりたいと、頻繁に拘置所へと足を運ぶ。一方、幸乃が中学時代に犯したとされる強盗致傷事件の現場を偶然目撃していた慎一は、幸乃の無実を信じ、独自に調査を始めるが――。
 幸乃を十七歳で産んだ母・ヒカルは、初めて丹下の診察を受けた際、「堕ろしてください」と言った。保護者もパートナーもいない自分は、今まで一度も生まれてきて良かったと思ったことがない。産むことなんてできないと。けれど「覚悟」を決めた後、生まれてきた娘に幸乃と名前をつけたのだ。
〈幸せになってほしいから。私が幸せにしてあげたいから〉。
 いつ、どこで、何によって、誰によって幸乃の人生は歪み始めたのか。生まれてきて申し訳ないとまで、思うに至ったのは何故なのか。事件の真相もさることながら、次第に彼女をそこまで追い詰めた人々の罪を考えずにはいられなくなる。そしてやがて、無意識のうちに自分も誰かにとっての彼らになっているのではないかと、問わずにもいられなくなる。祈るようにページを捲りながら、何を祈っているのかさえ、分からなくなる。
 果たしてこの結末は救いなのか、罪なのか。
 突き付けられた問いの答えは、当分出せそうもない。

 (ふじた・かをり 書評家)

早見和真『イノセント・デイズ』978-4-10-336151-0