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書評・エッセイ

『低地』刊行記念特集

美しい感情の抑制と爆発

――ジュンパ・ラヒリ『低地』(新潮クレスト・ブックス)

山田太一

 カルカッタに、十三歳の少年と彼から一年三ヶ月離れた弟がいた。物語のはじめ、二人はいつも一緒だった。かばい合っていた。父はインド鉄道の事務職員で、やがてその息子が二人とも大学に進学したことが町の噂になったりもした。母は仕立ての内職をして家庭教師代を助けた。インドの都会の勤め人の家庭など一向に知らないから、当り前のように書いてあることに「へえ」と思ったりした。
 それから兄はアメリカに留学してしまう。
 弟は少しも周囲に気づかせなかったが、政治革命を信じて当時の西ベンガル州政府の弾圧に抵抗していた。チェ・ゲバラや毛沢東が神だった。親が決めた相手ではなく、自分で決めた妻と一緒にもなっていた。
 突然その弟は官憲に逮捕される。
 兄弟が育った「低地」にあった池の端で妻や人々が見ている前で射殺されてしまう。
 物語の要約はここまでにしておこう。
 まだほんの序の口だが、これ以上話すと、はじめて読む人の楽しみを損ってしまう。決してストーリーで維持しているような小説ではないのだが、物語もよく考えられていて深いのだ。一章ずつその章にじっくり腰を据えて季節の描写、人物の細部、経緯(いきさつ)に集中して少しも慌てないのだが、次の展開が読めないことが私には何度かあった。「あ。そう来ますか」と作家の才能を楽しんだ。あらかじめ語って、その邪魔をしたくない。敬意といってもいい。
 主な舞台はアメリカに移る。インドにもいくらかは戻るが、メインは東部のロードアイランドである。カリフォルニアも少し。
 弟の「正義のための死」は兄に影を落さないわけにはいかない。しかし、兄は政治的な人間ではない。といって弟の死を誰にでもある死として片付けることはできない。目前ですべきことは、せめて弟の妻をインドから救い出すことだった。反体制で処刑された政治犯の未亡人として生きなければならない人生から救わなければならない。感情ぬき愛情ぬきで、アメリカで彼女を妻にして逃げ場をつくる。とりあえず、それが兄ができる弟に向っての「正義」だった。
 その妻にとっても他の選択肢はないように思えた。娘がうまれる。それは兄の子ではない。死んだ弟との子だった。兄はそれにも耐える。「大義」のために死んだ弟の自己犠牲に比べればそのくらいなんだろう。娘を愛する。妻も新しい夫を受け入れて幸福をつかみかけたように思う。
 しかし、ある日、妻は失踪してしまう。射殺された夫の記憶を忘れて幸福になることはできないと思ったのかもしれない。アメリカに来てから熱中した西洋哲学を足場にして、過去を振り切って自己の物語を娘を捨ててでも新しく生きたいと願ったのかもしれない。いや、周囲には暴力となるような行動は、そんな意味づけの余裕がないものなのかもしれない。
 ああ、要約している。しないといったのにしている。物語にも魅力があるのだ。しかし、この小説は要約してはいけないとも同時に思っている。要約では、語り口の静けさ美しさは、伝わらない。兄の情事――弟が元気なころのアメリカでの白人の中年女性との情事と別れもはぶくしかない。時に荒涼となるロードアイランドの海辺で風に向ってはばたく鳥が止っているように見えるとか、ミミズの死屍累累の光景とか、「ドゥルガー祭の直前の週だった。ヒンドゥー暦のアシュウィン月。これから満月に向かおうとしていた」というような言葉のかもし出す味をぬきにこの小説はあり得ない。
 ともあれ親しい人が「正義」のために死んだら、残されたものは、「では、自分はどう生きるのか」という問いと無縁でいることは難しい。たとえ、その死者の「正義」が色褪せたとしても、人々のために身を挺した事実までおとしめることはできない。兄も妻も娘も、それぞれがその問いに本気でこたえようとしたところに、この小説の独特の生真面目さと品格があるのではないだろうか。呑気に幸福であればいいという生き方を封じられた人生。あえて封じた人生。
 そのためか、それぞれの人物の感情の抑制が(そして作者のそれが)この作品の底を流れる美しさになっている。その爆発も。

 (やまだ・たいち 脚本家・小説家)

ジュンパ・ラヒリ著/小川高義訳『低地』(新潮クレスト・ブックス)978-4-10-590110-3