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書評・エッセイ

豊饒な食の宇宙

――小泉武夫『猟師の肉は腐らない』

三浦しをん

 なんて楽しい物語だろう!
 食文化や発酵学を研究する農学者の「俺」(泉山醸児先生)は、渋谷の酒場で猪狩義政(通称義っしゃん)に出会う。いや、渋谷のみならず京都でもギリシャでもばったり遭遇する。神出鬼没で、とにかくスケールのでかい義っしゃんと、すっかり仲良くなった「俺」。義っしゃんはやがて、故郷の八溝山地に戻り、猪撃ちの猟師として山のなかで一人で暮らしはじめる。
 この物語は、義っしゃんの家へ遊びにいった「俺」の、夏と冬それぞれ数日間ずつの経験を記したものだ。なにしろ山中のことなので、登場人物は「俺」と義っしゃんと義っしゃんの飼い犬クマのほぼ三者のみ。にもかかわらず、ものすごくスリリングで豊饒な世界が展開する。
 まず、出てくる食べ物がおいしそう! そして、電気も上下水道も引かれていない小屋で暮らす義っしゃんの、生活の知恵と生命力が半端ない! さらに、「俺」と義っしゃんのあたたかくユーモラスな友情、クマのけなげさとかっこよさにキュンキュンくる! 私は、「これ食べたい!」とか「へええ!」とか「ううう(涙)」と思ったページに付箋をつけていったのだが、誇張じゃなく全ページに付箋が林立し、付箋の意味がまるでなくなってしまったほどだ。
 福島県、茨城県、栃木県に跨がる八溝山地は、とても豊かな山で、動物も植物も虫もたくさんいる。義っしゃんは、「八溝の空気、山、川、谷、木、花、土、生き物、ぜんぶ好きなんだあ」という男で、あらゆる生命をひとつも無駄にすることなく、自給自足の生活を送る。義っしゃんの導きのもと、「俺」が八溝で食べるのは、兎、猪、岩魚や山女、ドジョウ、蝉、屁っこき虫の幼虫、蜂の子などなど。「俺」の食べ物描写は迫真で、読者の食欲を大変そそる。泉山醸児先生の好奇心旺盛ぶりと食いしん坊ぶりは、著者の小泉武夫氏とおおいに重なるところがあるのだった。
 義っしゃんはまた、山で暮らすものに必須な知恵を父親から受け継いでおり、保存食や濁醪(どぶろく)や味噌や米酢の作りかた、便所紙の代わりにする植物の葉っぱはなにが適しているか、といったことにまで通じている。義っしゃんがいてくれれば、たぶん人類最後のカップルとして生きのびられる、と思うほどたくましい。惚れてまうやろ!
 しかし義っしゃんは、自分のすごさにはあまり気づいておらず、「案内すっぺ」「そんなにうめがい?」「よがったない」と、「八溝・阿武隈ごっちゃ語」をしゃべりつつ、淡々かつ飄々と生きているのだった。
 そうか、と読んでいて私は気づいた。義っしゃんが「特別」で「すごい」のではない。義っしゃんの生活は、ほんの少しまえまで、あたりまえの日常だった。命に感謝しながらものを食べ、植物や動物とともに、自然のサイクルに則って生きる。そういう、生命として当然の行いを忘れ、「便利」と「安全」を過剰に追求した結果、心身をすりへらしている変な生き物は、私も含めた大勢の現代人のほうなのだ。
 本書は、それをさりげなく指摘する。けれど、説教臭さはまるでない。大らかだけど繊細で優しい心を持った義っしゃんのありかたを、楽しく生き生きと描くことを通し、ふと立ち止まって自分の足もとをもう一度見直す時間をプレゼントしてくれるのだ。
 私は子どものころのことを思い出した。義っしゃんの万分の一にも及ばないけれど、イナゴやツクシやヨモギを袋いっぱい集め、佃煮やらヨモギ餅やらを作って食べたっけなあ。東京でも季節や生き物はいまよりもずっと身近にあった。あの広大な原っぱは、もうない。食材を入手する場所がスーパーしかない現状は、本当に「便利」なんだろうか?
 本書の舞台はほぼ八溝山地に限られ、登場人物もいたって少ない。地球全体から見れば、悲しいほど狭い範囲で起こる物語だ。だけど、実は宇宙そのもののように広く深い。八溝山地に、義っしゃんの血肉のなかに、これまで生きて死んだすべての命の連なりが、その知恵と誇りが、銀河のごとく渦巻き輝きながら流れている。豊かで楽しい、食と生活をめぐる冒険譚の誕生だ。読めば絶対、心が躍りだす。

 (みうら・しをん 作家)

小泉武夫『猟師の肉は腐らない』978-4-10-454804-0