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書評・エッセイ

過去からの声に耳を澄ますこと

――坂口恭平『徘徊タクシー』

都甲幸治

 空港の待合室で偶然、蜜柑の匂いをかいだ恭平はまるでプルーストのように、別の時空に連れ去られてしまう。「蜜柑の皮を剥いた瞬間に噴霧スプレーのようにシュッと飛び散る柑橘の薫りは、鼻腔にへばりついている記憶を引き出した」。子どものころ、神社への石段を上りながら彼は、蜜柑畑からネーブルをもいで食べていた。その横を、蜜柑を満載したトロッコが高速で走っていく。
 東京で高名な建築家のもと、修業に励んでいる彼の月給はたったの三万円だ。夢を持って入った職場だが、徐々に彼は疲れきる。母親にも認められず、何より自分を尊敬できない。せっかくいい大学に入ったのに、医者にだってなれたかもしれないのに、母親は残酷な言葉を投げつけてくる。どうして自分の好きなように生きられないのか。どうして立派な人間にならなければいけないのか。
 突破口は故郷、熊本での出会いだ。日光の強いこの場所で、夕陽を浴びた人々は蜜柑になる。「夕陽は次第に葉っぱだけでなく、僕ら全員を蜜柑色にした」。世界は色彩を取り戻す。灰色の東京で凍りついた恭平の心が溶けていく。彼を導いてくれるのは曾祖母のトキヲだ。
 ボケた彼女は、とっくに社会の枠を突破している。白線を無視して道の真ん中を歩きながら、自分だけが知っている目的地を目指して、一直線に歩いていく。彼女を介助しているつもりで一緒に歩いていた恭平だったが、やがて二人の関係は逆転してしまう。実はトキヲは神社の境内に現れた、幻の山口県に向かっていたのだ。
 若いころ住んでいた山口で、トキヲは労働運動をし、人々を救おうとしていた。彼女の目の前で、現在の熊本と過去の山口が重ね描きされる。等間隔で広がり進んでいく近代の時空が大きく歪む。恭平は気づく。無いことになっている過去もまた、今ここに存在しているのではないか。いや、むしろ無いことになっているもののほうにこそ命の真実があるのでは。
 たとえば演歌だ。死んだ祖父のワーゲンにトキヲと乗り込むと、祖父のカセットテープから、都はるみの『涙の連絡船』が流れだす。「音源がライブ盤だったこともあって、僕とトキヲが乗ったワーゲンは盛大な拍手と共に見送られている。トキヲは手をガラス窓に押し当て、観客の声援に応えた」。見えない観客の前でトキヲはスターになる。そして藤色のストールをまとったトキヲはエジプトのミイラになり、都はるみの歌はモロッコに響くベルベル人の声に変わる。
 演歌だけではない。鉄の芸術家であるズベさんは任侠ばかりの銭湯で都々逸を高らかに唄う。祖父の葬儀では、祖父自身が作った相撲甚句が朗々と唄われる。死んだはずの祖父は声となってよみがえり、参列者に感謝を述べるのだ。おしゃれで西洋的な音楽に埋めつくされた東京から脱出し故郷に戻ることで、恭平は別の次元から響いてくる、別の声と出会う。
 坂口恭平は写真やノンフィクション、ドキュメンタリー映画などの形で、多彩な活動を続けてきた。最近では『幻年時代』(幻冬舎)など、小説にまで挑戦している。だが『徘徊タクシー』を読むと、彼が一貫して同じことを追求していることがよく分かる。それは、過去からの声に耳を澄ますこと、だ。
 河原に住もうと決意した人々が廃材を組み合わせて家を建てる。生きるためには、産業化され清潔さが徹底した現在では失われた知恵や工夫を想起し、再発明しなければならない。あるいは、『坂口恭平 躁鬱日記』(医学書院)で彼は、現代社会に適応できない自分の体にひたすら耳を傾ける。そこに立ち上がってくるのは、普段忘れられている、我々の身体の古代的なあり方だ。
 ボケ老人だ、ホームレスだ、病人だと決めつけられ、役に立たない者たちとして排除された人々にこそ英知がある。坂口は彼らのもとへ赴き、徹底して謙虚な姿勢を貫きながら、理解しにくい彼らの声を捉え、作品の形で翻訳してくれる。今ここにある別の現実をフィールドワークする彼は文化人類学者であり、言葉の正確な意味において芸術家だ。
 そして、失われた者たちの声の響きを常にすくい取ろうとしてきた小説は、坂口にとって理想的なメディアとなり得るだろう。今はただ、新たな小説家の登場を祝福したい。

 (とこう・こうじ アメリカ文学者)

坂口恭平『徘徊タクシー』978-4-10-335951-7