書評

2014年8月号掲載

現実を暴力的に創造する

――羽田圭介『メタモルフォシス』

田中和生

対象書籍名:『メタモルフォシス』
対象著者:羽田圭介
対象書籍ISBN:978-4-10-120161-0

 すばらしい密度の記述で、あざやかに現代日本の一面を切りとった作品集だ。
 そこには表題作である「メタモルフォシス」と「トーキョーの調教」という、ゆるやかに主題の重なる二つの中篇が収められているが、まずその表題が秀逸だ。なぜならメタモルフォシスとは、ラテン語で様態が変化する「変態」を意味するが、実際にそれらの作品で描かれているのは、現代日本で生きる三十代の男が「変態」する過程であり、またその過程の先に現われるのは、いわゆる「変態」性欲だからである。
 あるいはこの作品集は、そこで描かれている「変態」的な内容で注目をあつめるかもしれない。しかし注目されるべきはその内容ではない。その「変態」的な内容に説得力をあたえている、なによりそれを描き出すリアリズムの言葉である。
 二十一世紀に入った現在からふり返ってみると、まず一九四五年の敗戦後に、戦前の日本で日本語によるリアリズム的な作品の完成形と見なされた私小説が否定され、次いで一九七〇年代以降は、その私小説を可能にした志賀直哉的なリアリズムも批判されるようになった。また一九八〇年代以降、リアリズムを批判するポストモダン文学が日本語でも書かれるようになり、結果として日本語による現代文学は、敗戦後から一貫してリアリズムの言葉を手放しつづけてきた。もちろんそれは二十世紀後半以降の世界文学でそうだったように、真実を表現するものとしてのリアリズムに限界があったからだが、しかし「現実そのもの」に見えるリアリズムの言葉なしに、そもそも文学と現実は充分な関係をもつことができない。だから二十一世紀に入った日本の現代文学が不振であるとすれば、それはそこで描かれている内容が現実とどう関係しているのかわからないせいである。
 そのような意味で、この作品集で駆使されているリアリズムの言葉は注目に値する。なぜならこの作品集を読んでわかるのは、リアリズムとはそれを批判するポストモダン文学の書き手が主張するような、現実を「反映」しようとしたものではないということだからである。むしろそれは、こうであって欲しいという現実を暴力的に「創造」する、文学としてきわめて根源的な営みでありうる。
 たとえば「メタモルフォシス」で、語り手が三人称で描き出すのは証券会社に勤めて八年目になる証券マン「サトウ」である。職場では、売り上げの悪い日に上司から恫喝されるという「調教」に耐え、それなりの成績を上げられるようになっている。それは手数料が安いネット取引が今後主流になっていくだろう業界で、儲けられる見込みのない金融商品をそのことを知らない顧客に売りつけ、場合によっては顧客の生活を破滅に近づけながら生きているということを意味するが、それを描いた部分は現代日本の現実をうまく「反映」していると言える。
 しかし作者が圧倒的なリアリティをあたえているのは、その「サトウ」が通常の性的欲望を逸脱したマゾヒズム的な性的欲望にとり憑かれ、自らの生をどこまでも破滅に近づけなければいられないと感じながら生きているという「現実」である。紋切り型で言えばSMプレイ、スカトロジー、被虐嗜好といった内容がすばらしい密度で記述されるが、それら大量の「非日常」的な体験を含んだ「サトウ」の「日常」が現代日本の一部としか思えないというところに、「創造」としてのリアリズムの言葉の力がある。
 またその「サトウ」の前身とも言える、東京にあるテレビのキー局に勤める実力あるアナウンサーで結婚もして小さな娘もいる「カトウ」が、ささいなことがきっかけでSMプレイにのめり込んでいく過程を描いた「トーキョーの調教」は、大学生でアナウンサー志望である女王様「マナ」との関係が秀逸。東京出身の「カトウ」を福島出身の「マナ」が「調教」する世界は、リアリズムの言葉で現代日本のあり方そのものを転覆しようとしているのだ。真の意味での「問題」作である。

 (たなか・かずお 文芸評論家)

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