インタビュー

2014年4月号掲載

湊かなえ『豆の上で眠る』刊行記念インタビュー

本物って、何だろう?

湊かなえ

「週刊新潮」に連載された、湊かなえさんの長編小説『豆の上で眠る』が刊行されます。小学生のときの姉失踪事件。大学生になった今でも後悔と疑念に囚われている妹。彼女が、ある問いをかかえたまま、故郷に帰る場面から物語は始まります。頭の中に浮かんでくるのは、記憶を呼び起こす「童話」。湊さんにお話を伺いました。

対象書籍名:『豆の上で眠る』
対象著者:湊かなえ
対象書籍ISBN:978-4-10-126772-2

媒体

「週刊新潮」から連載の依頼をいただいて、最初に決めたのが、毎回、物語の中にちゃんと波があるものにしようということでした。初めての週刊誌連載でしたし、読んでくださっている方に「次はどうなるんだろう。来週号も早く読みたい」と感じてもらえるようにしたいなと思ったんです。

 むかし自分が『なかよし』などの少女漫画雑誌を読んでいたときのように、続きが気になって仕方がなく、発売日が待ち遠しくてたまらなくなるような、そんな物語を書こう。連載が始まってからも、そのことをずっと意識していました。

 一号に掲載される枚数が、原稿用紙で十五枚でした。その分量内で、しっかりと起伏を作り、終わりのところには、次号も手にとってもらえるよう、驚きや謎をおく。連載の途中で「これは雑誌でではなく、完結して本になってから読めばいい」と思われたくなかったですし、そのために「テンポ」をいつも以上に意識して毎週、書き進めていきました。

 連載が終わってから読み返してみたときに、この物語のテンポは、私にとって初めてのものだったなと気づきました。その意味で『豆の上で眠る』は、週刊誌連載だからこそ書けた作品だと思います。

姉妹

 いつかは姉妹について書いてみたいなと考えていました。親子のつながりと、姉妹(兄弟)のつながりには、温度差があるんじゃないかと思っていたからです。

 親は、父と母、他の誰でもなくその二人がいないと、「自分」がこの世に生まれることができなかった存在です。少なくとも子どもが小さい間は、親は子どもを守って、子どもは親に守られるといった庇護関係は、教えられなくても理解できるような気がしますし、子どもが親の期待に応えるためにがんばり、がんばっている姿を見て親は喜ぶということにも、不自然さを感じません。

 でも姉妹は、偶然同じ親から生まれたというだけであって、あの姉(あの妹)がいなくても、「自分」は「自分」としてこの世に存在することができたかもしれない。

 親は子どものために、復讐をしたり、行方不明になったときに自分のすべてを犠牲にして捜したりできると思うんです。親のために子どもが必死になっている姿も想像できます。でも、姉妹はどうでしょうか。

 姉あるいは妹のために、自分の人生を棒に振ってまで、何かをしてあげることができるのだろうか。姉妹のために、どこまで自分のことを犠牲にすることができるのだろうか。姉ががんばっている姿を見て、妹は無条件に喜びを感じるだろうか。そう考えてみても、やはり親と子ほど強い結びつきがあるとはなかなか思えませんでした。親子の関係性と姉妹の関係性。そのふたつの間にある絶対的な差に興味があったんです。

記憶

 姉妹が成長して大人になって、「姉(妹)がいて良かったな」と感じるとしたら、どんなことについてだろう。

 そう考えたとき、小さい頃に同じ時間を共有したこと、同じ記憶を持っていることに対してではないかと、気づいたんです。

 親は子どもについての記憶を、大人の目線で見たものとして持っているし、もしかしたら自分の都合の良いように書き換えてしまうこともあるかもしれません。

 たとえば、本当は忘れた年があったかもしれないのに、クリスマス・プレゼントを毎年あげていたと思い込んでいたり。それが姉妹であれば、同じように子ども目線で、いろいろなことを見て、体験しているわけです。

 もしクリスマス・プレゼントをもらっていない年があったら、そのことを大人になっても覚えている。もし姉が忘れていても、妹が覚えていれば、ふたりで話をしたときに、ああそうだったねと、記憶を呼び起こすこともできます。

 子ども時代に積み重ねた記憶。共有した時間。大人になってから普段意識すること、思い出すことはほとんどない些細なものばかりかもしれません。しかしそれは、友人にも恋人にも、親にも分からない、姉妹ふたりにとってだけ深い意味を持つ貴重なものなのではないか。

『豆の上で眠る』では、語り手の結衣子は、姉の万佑子が行方不明になる前までに共有した時間に、優しかった姉という記憶に、ずっと縛られ続けます。

失踪

 小学校一年生の夏休みに、万佑子が行方不明になったのは、自分が一緒に家まで帰らなかったからかもしれない。

 その後悔があるから、結衣子は、母親の無理ないいつけを受け入れて、万佑子捜しに奔走する。

 作中で、猫を捜している振りをして怪しい家を訪ねてまわってくれと、結衣子が母親に頼まれるエピソードがあります。これは、私の飼っている猫が失踪したときに近所を捜して歩きながらふと思いついたものです。

 大人が家を訪ねて、猫を捜しているんですと言うよりも、子どもが訪ねた方が温かく応対してくれるのではないか。猫が無事に帰ってきたので、そんなことを考える余裕があったのかもしれません。ただ、あの猫捜し体験が、誘拐もの、失踪ものを書きたいと思うようになった大きなきっかけのひとつです。

 そこから、子どもの目から見た失踪事件を書きたい、と発展していきました。

 事件の渦中にいる両親や警察に焦点を当てて書かれた小説はたくさんあるけれど、子どもの目線で失踪を捉えたものを読んだ記憶があまりなかったからです。

 結衣子は、万佑子が失踪した原因は自分にあるかもしれないという引け目があり、実際に、捜索を手伝いもします。しかし、子どもだからどうしても、大事なことを教えてもらえなかったり、わからないこともたくさんあったりします。そうやって蚊帳の外に置かれてしまった子どもの目線で、失踪を記録していくと、物語として面白いものになるのではないか。

 子どもだから見えるものもあるかもしれません。全身全霊で娘を捜そうとする親の執念と、妹である結衣子が姉を見つけたいと願っている必死さとの間に生じた微妙なズレにもドラマが生まれるかもしれない。そう思ったんです。

童話

 結衣子が囚われている記憶のひとつが、アンデルセン童話の「えんどうまめの上にねたおひめさま」にまつわるものです。

 ある少女がお姫様かどうかを確かめるために、重ねた羽根布団の下にえんどう豆を置いて一晩寝かせる。翌朝少女は、違和感があったのでよく眠れなかったとこたえます。

 その童話を万佑子が読み聞かせてくれ、子どもながらにふたりで実験もする。

 他の人では分からない違和感にお姫様が気づいたように、行方不明になり無事に戻って来た姉に対して、結衣子も違和感を覚えます。自分以外のみんなは、よく帰ってきたねと喜んでいる。でも、結衣子だけは姉の帰還を心の底から祝福することができません。

 この人は、あの童話を読み聞かせしてくれた万佑子ちゃんではないと、どうしても思えてしまうからです。そう感じさせる異物の正体を、これだ!と断言することは結衣子自身できないのですが、違和感については確信がある。

 タイトルは連載が始まるぎりぎりまで悩みました。

 自分にしか分からない「違和感」を、ストレートではない形で表現するにはどんな言葉があるだろうと、いろいろ考えていると、「えんどうまめの上にねたおひめさま」のことを思い出したんです。そこから、イメージを広げて『豆の上で眠る』というタイトルを思いつきました。

本物

 あの童話では、本物のお姫様かどうかを確かめるために「違和感」が判断材料として使われています。『豆の上で眠る』では戻ってきた姉が本物かどうかを妹が疑ってしまう原因が、どうしても拭い去ることのできない「違和感」です。

 自分のせいで、行方不明になってしまったかもしれない姉。一生懸命に捜索を手伝い、厭な思いをさせられて、やっと帰ってきた姉が、あの万佑子だとはどうしても思えない結衣子は、戻ってきた姉に、むかしと同じように「万佑子ちゃん」とよびかけることができません。大学生になっても、そうです。本物だとは、どうしても思えないからです。

「子どもの目から見た失踪事件」を書きたかったのと同じくらい「本物って何なんだろう」ということを突き詰めて考えてみたいと思っていました。本物だと決めるものは何なのか。本物はこれだと、決めることができるのか。

 物語を楽しんでいただけるだけでもうれしいのですが、読み進めながらその問いについて少しでも考えてもらえたら、とても光栄です。

 (みなと・かなえ 作家)

最新のインタビュー

ページの先頭へ