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書評・エッセイ

苦しみに寄り添う

――窪美澄『よるのふくらみ』

西加奈子

 この物語は、寂れた商店街で育った、ある男女三人の群像劇である。圭祐と裕太という兄弟と、ふたりの幼馴染、みひろだ。
 最初の章、「なすすべもない」は、みひろの一人称で描かれる。圭祐と結婚を前提とした交際を続けているみひろは、圭祐とのセックスレスで苦しんでいる。いつからかつけはじめた基礎体温は、高温相と低温相の綺麗なグラフを描き、そのちょうど間、排卵時期になると、律儀に「発情」してしまう。行き場のない欲望は、彼女自身を苦しめ、いつしか彼女はある思いを抱くようになる。
 ふたつめの章「平熱セ氏三十六度二分」は、圭祐の弟、裕太の視点で描かれる。ソツのない兄に劣等感を抱いている裕太は、追い討ちをかけるように、恋していたみひろを兄に奪われた過去を持つ。ある日を境に、みひろとの関係もぎくしゃくしたものになった裕太。彼の前に、ある母子が現れる。裕太が勤めている不動産屋に、家を探しに来たのだ。ワケのありそうなその母子が、裕太はどうしても気にかかり、彼らのいびつな交流が始まる。
 三つめの「星影さやかな」では、圭祐が語り部だ。弟に対して持っている愛憎のようなもの、そしてみひろとの関係。そこに、兄弟の父がかつて不倫をしていた女性の思い出が加わり、圭祐が、いかにして「圭祐」になったかが、とつとつと語られる。
 このように、全六章からなるこの作品は、三人が順番に語り手となっている。それぞれは、それぞれの回答のような役割を果たし、だが決して単純なものにはならない。かつて家族を捨て失踪したみひろの母や、兄弟の不倫していた父親、裕太が出会った母子などが混じりあって、物語は重層的なふくらみを見せる。
 これは群像劇である、と最初に書いた。それはその通りだと思うが、でも、ある部分で違うような気もしている。
 群像劇を描くとき、作者は、即席の「神」になる、はずだ。乱暴かもしれないが、それは真実だと思う。ある人間を描き、そして同時に「一方その頃」を描くとき、作者は物語を俯瞰し、登場人物たちを「動かす」。それはまさに「神」が世界を見て、創造しているような行為だ。
 でも、この物語は、そのような俯瞰の視線、あるいは大いなる力のようなものを感じさせない。
 登場人物は、皆苦しんでいる。その苦しみに、作者はとことん寄り添おうとしている。俯瞰していないと書けないはずなのに、でも、限りなく登場人物のそばに寄り添い、一緒に苦しんでいるのだ。私小説を読んだとき以上の生々しさ、力強さでもって。
 昔読んだある小説で、神のことをこう言っている人がいた。神は許すのではなく、救うのでもなく、一緒に苦しむのだ、と。読みながら、ずっとそのことを考えていた。この小説はまさに「それ」をやっている小説なのではないか。
 自らが構築し、「俯瞰」で描き出したはずの世界の中を、登場人物以上に苦しみながら、共に歩む。
 登場人物それぞれの、全力の逃亡を許しながら、作者は絶対に逃げない。彼らと共にあり続け、そして苦しみ続ける。そして、全力で逃げた先、彼らの目に「ある光」が見えたのなら、それは立派な、紛れもない光なのだと、教えてくれる。
 思えば窪美澄さんという作家は、デビュー作の『ふがいない僕は空を見た』からそうだった。物語を作りながら、物語の深淵に入り、血だらけになって、登場人物を救ってきたのだった。その血は誰にも見えない。でも、物語に寄り添っていると、何よりも強くその血を感じる瞬間がある。
「血の通った」とはよく言われる言葉だが、それをここまで体現する作家は、稀だと思う。

 (にし・かなこ 作家)

窪美澄『よるのふくらみ』978-4-10-325924-4