TOP > 波 -E magazine Nami- > 書評・エッセイ

波

書評・エッセイ

夢から醒めたあとで

――白洲正子『ほんもの 白洲次郎のことなど』

和田尚久

 私はこれまで、白洲正子の本を何冊か読んだことがある。ただし、それらはいずれも能について書かれた著作であって、彼女が女性としてはじめて能のシテを勤めたという伝説ともあわせ、白洲正子=能の人、というイメージを持っていた。もちろん、骨董やら旅やら、永きにわたった文学者たちとの関係について知らないではなかったけれども。
 だから、今回あらたに編纂された『ほんもの 白洲次郎のことなど』を通読し、色々と得るところが多かった。しかし、ページを閉じてみれば、この本もまた、〈白洲正子による能〉に違いないのであった。念のために言うが、これは能を論じた本ではない。そうではなく、これは書物のかたちをした彼女による能だ、ということを私は言いたがっている。
 それはつまりこういうこと――。
 能には二百番ほどのレパートリーがあるが、その内容は〈現在能〉と〈夢幻能〉にはっきりと区分される。両者を隔てるのは、時間の扱い方である。
〈現在能〉は、多くの芝居や映画と同じように劇中の時間が過去――現在――未来へと進行していく。「安宅(あたか)」や「望月」、「俊寛」、「土蜘蛛」などなど。これらは時間の推移とともに、ストーリーが展開していく。つまり現実世界と同じ時間構造を持っているから、見物が理解しやすく、「安宅」が芝居の「勧進帳」に脚色されたように、うけがいい。
 そして、もうひとつが能独特の条理をそなえた〈夢幻能〉だ。「融(とおる)」、「清経」、「江口」、「巴」、「烏頭(うとう)(善知鳥)」――私の好きな曲を思いつくままにあげたが、能の能らしい作品はほとんどこちらに属すると言ってよいだろう。〈夢幻能〉において、劇中の時間は現実のようには進行しない。たとえば、「融」のシテは六条河原院で豪奢を尽くした源融の霊であるが、能の後場、ありし日の姿で現れた融は、かつての曲水の宴の光景を現前させる。ここで重要なのは、これが誰かによる回想ではないということだ。融大臣による月下の遊舞、塩釜の遊びが、現実の時間の流れの順序を無視して、ただ目前にある。ワキの旅僧と見物は、それを目の当たりにするよりほかない。
 白洲正子がモチーフと切り結ぶ関係は、能の方法によく似ている。
 本書において、彼女は白洲次郎や、小林秀雄や青山二郎、人騒がせな骨董商の秦秀雄を材料にしてクリアな肖像画を描いていく。しかし、それが決して回顧談や、近くにいた人ならではの逸話集のありきたりに陥っていないことに注意しなくてはならない。
 数十年間の付き合いがあった吉田健一について、彼女はその死後、彼に「やっと出会えた」と記す。吉田本人はもういないにもかかわらず「人と付き合うのも、相手が健坊ほどの人物になると、なかなか手間のかかるものである」と。
 白洲正子の振る舞いは、つねに――それは意図せざる根深さとして――このような時間のズレをともなう。小林秀雄や洲之内徹、さらには十九歳から生活を共にした白洲次郎さえも、彼女が本当に出会ったのは彼らの死後であったのだろうと思う。ただし、そのとき彼女の顔は過去を向いているのではない。彼女は死のあとに光のみなもとを置き、人間を照射するのだ。それが能と同じ構図を持っている。そのとき、姿をあらわす人間は、本書の言い廻しを借りれば「BEING」――ただ存在している。
 それにしても、彼女の筆致は意地悪の楽しさに満ちている。意地悪は女の人を構成する必要条件だが(水には水素が必ず含まれているように)、彼女のそれは質が良い。骨董の〈真贋〉に振り回される男たちを、彼女はからりとした筆致で自分のものにしてしまう。川崎長太郎に至っては、本人に会うことなしに、その顔を浮かびあがらせてしまうのだから、その技は冴え冴えとしている。
 明治四十三年に生まれ平成に世を去った彼女は「昭和」という時代について「それは醒めるために見た夢」のようであったと言う。
 能において、夢を見るのはワキの役である。シテは夢の陶酔におぼれることを決して許されない宿命を生きている。

 (わだ・なおひさ 放送作家)

白洲正子『ほんもの 白洲次郎のことなど』978-4-10-310721-7