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書評・エッセイ

「私」の発見

――最相葉月『セラピスト』

吉田篤弘

 もう何年前になるだろう、最相さんから本書の構想をうかがったとき、なるほど、カウンセリングをめぐる治療の歴史や患者の症例もさることながら、われわれはカウンセラー=セラピストその人のことをよく知らない、と膝を打った覚えがある。彼らの人生や胸の内はどうなっているのか、彼や彼女には迷いや心の疲弊はないのだろうか――。
 本書はそうした疑問に答えてくれる。診られる側=クライエントの物語だけではなく、診る側=観察者の物語が詳らかにされる。
 ところで、ぼくは本書の装幀を担当したので、いち早くゲラ刷りの原稿を読み、冒頭に「私」という一人称が登場したことに大変驚いた。これまで最相さんが書いてこられたノンフィクション作品は、本書で著者自ら述懐しているとおり、「私」の存在が、極力、消されていた。「私」は「観察者」に徹するために取材対象となる人物や事象から可能な限り距離を置いて息をひそめていた。それが、最初のページにいきなりあらわれる。
 ――最相さんが本の中にはいってしまった!
 言い方を変えると、著者は自らを取材対象の一部として登場させている。いつもは、「こちら」側にいた最相さんが、「あちら」側に行ってしまったのだ。ぼくはあわててゲラを伏せた。読み始めたら最後、夢中になって、ぼくも「こちら」側に踏みとどまれない、と思ったからだ。
 装幀の仕事をするときは、なるべく著者と読者のあいだに立ちたい。どちらの側に立つのでもない。本のカバーや表紙が、テキストと読み手のあいだに介在するのと同じで、そのためには「こちら」側、つまり、本の外側に立って、「観察者」になる必要がある――。
 これは「心の病い」について書かれた本である。そして、心の病いを解くカウンセリングとは、どうやら「自分を知る」ことであると教えられる。「心」という目に見えないもの、しかし、誰もが持っている「それ」を真ん中に置き(あるいは、置いたと仮定し)、迷っている人と導いてゆく人が静かに対面している。この迷子と導者はじつのところイコールで結ばれていて、二人は力を合わせて何かを発見しようとしている。その発見に至るまでの過程=心すなわち自分を発見するまでの「道行き」がカウンセリングである。そして、その「道行き」が、目に見えない「心」に輪郭を与えてゆく。
 人間は一人きりでは正しい観察者になれない悲しい生き物だ。正しい観察をしようとすればするほど自分が邪魔になる。しかし、翻して言えば、誰かと分かち合ったり交換しあったりし、二人で力を合わせることで、見えないものまで観察し得る。
 本書の眼目は、これまで観察者に徹してこられた最相さんが、「自分(の心)」を見つける過程を描いていることだ。構想の段階では思いもよらなかったはずで、にもかかわらず、期せずして「私」に至るドキュメントになっているのは、このテーマを取り扱うには「私」=「心」は避けて通れないものだったからだ。それを身をもって示された。「私」を消してきた最相さんが、どうしても「私」を書かずにおれなかった。それこそがこの作品の最大の驚きであり感動である。
 おそらく、こうした道行きを経験した者が、観察者の領域を脱して「セラピスト」になってゆく。
 ちなみに、ぼくは「装幀者」なので、「セラピスト」になる必要はない。だから、出来る限り、ゲラと距離を置いて装幀のアイディアを練った。けれども、本書が持つ魔力のようなものに抗うのは並大抵ではなく、つまり、この本はもうひとりの観察者である「読者」を取り込む強い力を持っている。
 その力の正体とは、人間という悲しくもいじらしい生き物に対する「愛」の力に他ならない。

 (よしだ・あつひろ 作家、装幀家)

最相葉月『セラピスト』978-4-10-459803-8