書評

2014年1月号掲載

山本周五郎と私

三十年ぶりの再読

横山秀夫

対象書籍名: 山本周五郎長篇小説全集第23巻『寝ぼけ署長』
対象著者:山本周五郎
対象書籍ISBN:978-4-10-113435-2

「呼び出してすまんな」「いいけど何? 俺、あんまり時間ないんだ。五時からホスト殺しの会見だから」
「山本周五郎の『寝ぼけ署長』、もう読んだよな」「えっ?」「南署の佐々木署長に借りたはずだ」「ああ、あれね。先週読んだけど、署長に借りたんじゃないよ。署の巡回文庫に入ってたのを拝借したんだ」「ふーん、そうだったか」
「まあいい。読んだ感想を聞きたいんだ」「感想って? じゃあ覚えてないわけ?」「ホスト殺しでバタバタしたからだろう」「ああ、なるほどね。どこで読んだか覚えてる?」「記者室のベッドか」「そうそう、夜廻りの合間に読んだんだ、一話ずつ」
「だったかもな。で、どうだった?」「ヤバい用語のオンパレード。あれじゃあ記者ハンドブック片手に直したら真っ赤っ赤だ」「時間がないんだろう」「いや、面白かったよ、普通に。周五郎っていうよりタイトル読みだったんだけど、警察の勉強にはならなかったな。あれって昭和初期の設定だよね。内務省が所管してた時代の」「ほう、調べたのか」「広報官も読んだって言うから駄弁ったんだ。覚えてない?」
「周五郎の作品としてはどうだった? 昔よく親父の本棚から引っ張りだして読んだろ。さぶとか赤ひげとか樅ノ木とか」「ああ、漢字飛ばしてね。うーん、そうだなあ、これは他のとは毛色が変わってるよな。ちょっとホームズっぽくて」「造りはそうだ。周五郎が遺した唯一の探偵小説集だからな」「語り手の秘書だってワトソン君ばりだろ。えーと、あの寝ぼけ署長、なんていったっけ」「五道三省(ごどうさんしょう)」
「それそれ、五道三省だ。無能とかぐうたらとかは嘘っぱちで、あれって千里眼だし、もう掛け値なしの名探偵だよ。で、秘書君は推理力も洞察力も署長に遠く及ばないものの、常識的で節度があって語り上手とくりゃあ、まさに探偵小説の黄金コンビだろ。出てくる事件だって、えーと……」「密室殺人あり、暗号解読あり、替え玉あり、人も金も次々蒸発する」「そうそう! あれ? 思い出したの?」
「再読したんだ、三十年ぶりに」「三十年ぶり……」「どうした」「ってことは年が明けると五十七」「そうだ」「一つ聞いていいかな」「答えられることならな」「今、何やってるの」「……何って何だ」「総務が言うには、そう遠くないうちにウチの役職定年は五十七歳になる。役員になってりゃ話は別だけど」「悪いな。言えない決まりだ」「ひょっとして、もう辞めちゃってるとか」「悪いな――それより続きを聞かせてくれ」「再読したんならそっちも感想言いなよ。そういうのまで言えない決まりなの?」
「俺は探偵小説というより侠気小説として読んだ」「侠気ね。弱きを助け強きを挫くか」「だけじゃない。罪を憎んで人を憎まず。愛ある行為を讃え、愛なき行為を憐れむ。まさしく周五郎節全開の一冊だ」「まあ、そこんとこは同感かな。五道三省は結構好きだった。うんちく含蓄の数は浜の真砂状態だし、いちいち痺れる台詞を吐く。あ、持ってるならちょっと見せて。えーと、どこだっけ……。あれえ、あれあれえ……」「読んだばっかりなんだろ」「あ、マーカー入ってるじゃん。なになに――貧乏だということで、かれらが社会に負債(おいめ)を負う理由はないんだ、寧ろ社会のほうでかれらに負債を負うべきだ――なるほど」「その先がもっといい」「――食うにも困るような生活をしている者は、決してこんな罪を犯しはしない、かれらにはそんな暇さえありはしないんだ――なるほどね、ちゃんと周五郎してる」「………」「なんだ、マーカーだらけじゃんか。お次は、と――どんな富のちからだって、権力だって、人間の愛を抑えたり枉げたりすることはできやしない、またそんな権利もない――ほほう」「………」「――自分の能力を試してもみずに、暗算でものごとの見透しをつける小利巧さ、こいつを叩き潰さなくてはいけない――おお、これはなんか身につまされるな」
「………」「なんだよ、その顔」「お前、ちゃんと読んだのか」「読んださ」「サツ官との話材探しをしただけか」「いやまあ、それもあったけど」「警察のトリビアネタをメモりながらざっと読んだってことだな」「そんなことないって。だから探偵小説として気楽に読んだんだよ。わかったわかった、そのうち事件が終わったらゆっくり読み返すさ」「三十年後だぞ」「えっ? あ、ああ、そっか」
「謎が解けたよ。読んだことすら忘れてた理由がな」「嫌味言うなって。そっちこそ思い出せよ。サツ廻りやってる最中に呑気に小説なんか読んでる時間あったか」「だな。わかった、邪魔したな」「待てよ。座れよ。感想ならある。ほら、あれだ。侠気はわかるよ、よーくわかるんだけどさ、いくらなんでも五道三省はやりすぎっていうか、やらせすぎだろう。えーと、ほら、ホシを次々と目溢ししたり……。それから……」「未遂事件の揉み消し。手紙や文書の偽造。恐喝文まで送りつけた」「そうそう、もっとあったよな」「なりすまし、住居侵入、記者に対するミスリード」「あ、それそれ! ミスリードはともかくさ、あの青野とかいう記者はなんなんだよ。悲しくなるほど重症の記者病患者だ」
「そうカッカするな。署長の引き立て役として必要な男だ」「結局のところ、探偵小説だからだろ。やっぱりその辺りが他の周五郎本とは違うんだよ。いや、これにも確かに書いてはあるんだ。金も力もない人たちの哀しみとか、男や女のやむにやまれぬ事情みたいなものとか、きっちり書き込まれてるんだけど、それがあんまりリアルタイムで読めなくて、ミステリーのオチの所にワッと集中してくるというか……」「無理しなくていいぞ」「してねえよ。だんだん思い出してきたんだ。そうそうだから、物語の流れに身を任せるみたいないつもの心地好さがなかった。周五郎の本を読んでいるっていうより、周五郎一座の公演を見せられている気分だった」「わざとそうしたんだろう。周五郎は塀を高くして庭を造り込んだんだと思う」「塀? 庭?」
「小説は箱庭みたいなもんだってことだ。囲む四方の塀を高くして独自の世界を構築するか、あるいは塀を低くして借景よろしく実社会を取り込むか。歴史小説や時代小説は前者だとして、だけど周五郎の作品は塀が高いか低いか論じる以前に、塀そのものが存在しない感じがしないか」「ああ、確かにね。今との地続き感が半端なくあるなあ。なんていうか……空は今も昔も青いとか、江戸や明治から風が吹いてきて頬を撫でるみたいな」「まあ、周五郎の場合、高い塀の囲いがあっても同じことさ。少し狭くったって空は見えるし青い」「寝ぼけ署長がそうだってこと? 探偵小説だから箱庭が強いって言いたいの?」
「箱庭どころの騒ぎじゃないんだ。恐ろしく塀の高い、五道ランドの建設が必要だったってことだよ」「は?」「考えてもみろ。五道三省が署長でいた五年間というもの、管内は平穏、事件らしい事件はなかったと思いきや、実は事件や事件になりそうなたくらみは山ほど存在していて、なんとそれを署長がひとり陰に陽に立ち回ってソフトランディングさせていた――これは目から鱗の設えだけど、警察のことを少しでも知ってれば、それがいかに無謀な設定かわかる。お前が言ったように時は既に昭和だ。しかも五道三省は、記述はないが帝大出の超のつくエリートで、本人がその気になれば内務省三役の警視総監にまで登り詰めそうな逸材だ。そんな男に警察署長の立場で法律無視の正義を繰り返し実行させる。最後には無傷で本庁に送り出す。そんなリアリティーの欠片もない話を、人情話、侠気小説に昇華させるためには、秘書も記者も貧民街のみんなも彼らに半年間寮を明け渡した署員たちも、とにかく猫も杓子も総動員して高い塀を築き、外の世界と隔絶した特別な市(まち)を造るしかなかった」「………」「だからいい。みんなが力を合わせ、苦心惨憺して創造した奇跡のような世界だから、読んだ人間は幸福感を得られるんだ」
「聞いてるのか」「聞いてるよ。だけど、なんでまたそんな無茶な設定にしたんだろう。事件を事件にしない警察なんて」「警察の意味、聞いたろう」「ハハッ、聞いた聞いた。安協に天下った吉村さんだろ。えーと、警察の警は、常に犯罪に対する警戒を怠るべからずの意。察は、犯罪を未然に防止するため、あらかじめ地域と人を知っておくこと、だっけ?」「まんま五道三省だろう。検挙が警察の仕事だとみんな決めつけてるが、本分は犯罪の予防なんだ」「それって川路大警視が輸入したおフランス流だろ。所詮、警察はパクってナンボさ」
「思うに周五郎って人は、たとえ探偵小説の中といえども、いたずらに咎人を量産したくなかったんじゃないのかな。権力者である警察署長を主人公に据えときながら、その権力を行使させる気などさらさらなかった。パクってナンボの警察が意地でも事件を挙げない。そのアイロニーこそが寝ぼけ署長の肝なんだろう」「行使したけどな、幕藩の亡霊や町の顔役には」「ハハッ、連中も五道ランドの立役者さ。誰よりも熱心に塀を造ってたじゃないか」「なるほどね……。ところでさ、本当んとこ感想を聞きにきたの? 言いにきたの?」
「聞きにきたんだ――寝ぼけ署長、あんまり響かなかったってことか、二十六歳の俺には」「そうだなあ、警察漬けの毎日がリアル過ぎるからだろうけど、五道ランドのヒューマニズムは濃厚すぎて、俺にはちとキツかったかな。それに気も散ったんだ。読んでる最中にホスト殺しのネタを抜かれたりして」「抜かれた?」「おっとごめん、もう行かなくちゃだ」「………」「何さ、その顔?」「思い出した」「えっ?」「思い出したんだ」
「記者室で寝ぼけ署長を読み終わったあと朝廻りに出たろう? 一課長の官舎に」「行ったよ。日課だからな」「歩いて行った」「あ、うん」「なぜ車で行かなかった」「なぜって……なんでかな。歩いてもそんなに遠くないしな」「ホスト殺しで抜かれた翌日だぞ」「あ……」「公園を散歩したろ」「いや、散歩っていうか……」「歩きたかったんだ」「いやあ」「ちょっと歩きたい気分だったんだ」「………」「途中で文庫本を取り出してめくった。最後の辺りをちょっと読み返した」「………」
「署を去る五道三省の独白だ――おれはあの市(まち)が好きだ、静かな、人情に篤い、純朴な、あの市が大好きだ――」「ん」「――色いろな人たちと近づきになり、短い期間だったが、一緒にこのむずかしい人生を生きた――」「ん」「空を見上げたろ」「ん」「青かったな」「ん。青かった」
「会見に遅れるぞ。行け」「行く。一つだけいいか」「何だ」「なぜ記者を辞めたんだ」「カマをかけるのはサツ官限定にしとけ」「幸せか、今」「………」「行く。俺は記者を続けるからな、ずっと」「いちいち宣言するな。ケツは持つ。お前はただ、お前のむずかしい人生を生きればいい」

 (よこやま・ひでお 作家)

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