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書評・エッセイ

「わが闘争」の「百年の孤独」への昇華

――小池博史『からだのこえをきく』

茂木健一郎

 小池博史さんが主宰していたパパ・タラフマラ(二〇一二年三月解散)の舞台を、何回か見に行ったことがある。『三人姉妹』とか、『見えない都市の夢』とか。対談もさせていただいた。日本が、まだまだ出口の見えない停滞の中にいた頃のことである。
 小池さんの舞台は、他の日本の劇団と、何かが決定的に違っていた。当時すでに、海外公演が多く、小池さんが、国外と日本の舞台芸術を取り巻く環境の違いについて、愚痴のようなことをもらしていたことを覚えている。ああ、小池さんは、何かと闘っているのだなと思った。
『からだのこえをきく』を読んで、小池さんが闘っているものの対象がなんなのか、はっきりと見えた気がする。『からだのこえをきく』は、小池博史という舞台芸術家の「わが闘争」である。そして、その闘魂は、多くの読者の心に響くことだろう。
 時代は、とりかえしのつかないかたちで変質してしまっている。これが、小池さんの基本的な認識である。もちろん、それが、一人の芸術家の創造的妄想である可能性もある。しかし、本書を読む限り、小池さんは重大な変化の核心を実際につかんでいるように思う。
 世界の情報化、商業化、ネットワーク化の中で、私たちが見失っているもの。それは、私たちの「からだ」であると小池さんは考える。その言葉は時に辛辣で、状況に対して批判的だが、読む者の心の中に届くのは、背景に深い人間愛があるからであろう。
 時代はアニメ全盛だが、そこに本当に人間の身体が描かれているか、と小池さんは問う。生身の人間のからだが持っている繊細なニュアンス、息づき、脈動が再現されているか。それに相当する豊饒があるのか。
「からだ」を取り戻さなければならない、と小池さんは書く。多くの自殺者を出し、少子化が進み、前衛的な舞台芸術が消えつつあるこの日本で、「からだのこえをきく」ことが大切だと主張する小池さんのメッセージは、多くの共感を呼ぶだろうし、インターネットやグローバル化の行き過ぎに対する世間の本能的警戒感とも呼応し、読者を得るだろう。
 しかし、私がここで書きたいのは、もう少し途轍もない、そして微妙なことである。
 本書を読み出してしばらくした時、あれ、この感覚は何かに似ているな、と思った。さらに読み進めるにつれ、それは確信に変わっていった。
 この本の文体、文章の流れは、どこか本質的なところで、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』に似ている!
 実は、その印象がかたまった少し後で行き当たった本書中の文章で、小池さんは実際に『百年の孤独』に触れるのだし、それをきっかけに、小池さんの舞台芸術のそもそもの目標が、『百年の孤独』の上演だったこと、そのことを、私は何度も聞かされていたことを鮮明に思い出したのであるが、人間の記憶というのはいい加減なもので、本書を読み始めた時には、そのことは忘れていたのだった。
 小池さんの故郷である茨城県日立市の描写から、高度経済成長期の日本、バブル期の喧噪、舞踏の誕生、村上隆氏の芸術、新国立劇場のあり方、商業主義の弊害、現代の状況下で時代を超えた作品を生み出すことの困難まで、さまざまなテーマが縦糸と横糸を織りなす壮大な言葉のタペストリーは、まさに『百年の孤独』の境地に迫っている。
 犀の角の如く独り歩め――。
 小池博史さんは、本書において、その演劇人生の「わが闘争」を、「百年の孤独」へと昇華したのである。

 (もぎ・けんいちろう 脳科学者)

小池博史『からだのこえをきく』978-4-10-335011-8